火の車
昨日、草野心平の『酒味酒菜』を紹介したが、読み進めるうちに、また面白い箇所を見つけてしまった。あまりに面白いので、どうしても紹介したくなってしまったので、ここで紹介してしまう。
『赤湯「火の車」』という文章である。赤湯というのは山形の温泉地だが、山形だから紹介するというわけではなく、内容に心を動かされたからである。
草野心平は居酒屋をやっていた時期があり、屋号を「火の車」といった。詩人が居酒屋をやるというのと屋号が面白いのとで珍しがられ、週刊誌などでも記事になった。それを読んだ人が屋号を真似て各地で店を開いたりした。しかし、誰も、屋号を拝借しましたという挨拶をしてくる人は居なかった。
ある日、後藤文蔵という人から手紙をもらう。赤湯の人である。「火の車」という屋号を使わせてもらった。無断借用して申し訳なかった。一度赤湯に来てくださいというので出かけた。
「後藤文蔵は赤湯での老舗の長男だが、酒と女で身代を潰し、親戚からは見はなされ、言わばニッチもサッチもいかなくなった。その没落寸前、というより没落のなかで、ふと目についたのは週刊誌にのっていた、私の居酒屋「火の車」に関する記事だった。」
詩人が居酒屋をやれるのなら自分にもがんばればなにかできるだろうと考え、「火の車」という屋号で小さい店を開いた。
以下は、本文中の後藤文蔵のセリフだけを抜き出してみたものである。
「毎晩あきもせずに、先生、よくも飲んだな。飲んで飲んでよう。それに女に通うんだから、金もなくなるし、親戚にはアイソつかされるし、借金もふえるでしょう。赤湯で古い呉服屋だったんだけど、見事につぶしちゃってよう。」
「そうして残ったものはよう、家屋敷とおふくろと女房と借金だけになってしまいました。おふくろはしかし、オレの酒をとめないんです。(お前は長男だから、家屋敷を飲んでしまおうが、どうしようが勝手だぞい。乞食になって構やせん。お前が通りに土下座して乞食をするんなら、オレはそのわきに坐って手伝ってやる)おふくろは、こんな風に言うんです。そういわれるとおれは困ってしまってよう。困ってもしかし、どうにもならなくてよう。いろいろゴマカシては飲んでたもんです。そんな時に、週刊誌で『火の車』の記事をよんだんです。オレはドキッとして考えたなあ。正しくいまのオレは『火の車』だ。『火の車』以上だ。草野なんてヒトがやるんなら、オレはまだ若い。出来ないこともあるまいと思ってよう。決心したんです。なにもかも清算して、あとくされなくしてと思って、債権者に全部きてもらったんです。十二人がドヤドヤとあつまってよう。オレはこう。畳に手をついて……」
「まことにまことに申し訳ありませんが、オレの財産は、もうこの家しかありません。借金のカタはちがいますが、どうか皆さん相談の上でこの家をどのようにでも御処分願います。ぶちこわしておわけになるなり、なんなりして下さい」
「まず、そんな具合でよう、あやまったんです。ところが貸してる方でもよう、ぶちこわして分けるわけにもいかず、『火の車』の成績を待つということになったんです。よかったなあ」
「決心するとおかしなものでよう。少しばかり金もできた。家の一部をベニヤ板で区切ってよう、それに墨汁をぬったくり、カウンターみたいなものをつくったりして、先生、ともかくもちっぽけな店が出来たわけです。『火の車』の看板もオレが書いてよう。いよいよ開店まで漕ぎつけた。やったのはスシです。ところがすしなんか、食ったことはあったが、にぎったことは一度もない。それでもマグロとか、少しばかり買ってきてやっちゃったな。あの呑ん平の助平野郎が、どんなものをはじめたのか行って見べえ、という物好きや、いままでの飲み仲間が、開店の日にやってきた。オレは握ったすしを出したが、ベニヤ板に塗った墨が手の指っこについていて、タコの白っぽいところが黒くなったりして、客も仕方なく笑ったなあ、それからオレはお客たちに早く食ってくれ、早く食ってくれ、とたのむんです。早く手にとってくれないと二つ並んだスシが倒れてしまう。まあ実際は一つだけは立ってるのを食ってくれるが、その間に、もう一つの方は倒れてしまう。それでも客は意地悪も言わず、文ちゃんの倒れズシか、などと笑いながらパクツク始末、先生、全くヤレヤレだった。ところで山形新聞の記者が、先生の『火の車』を知っててよう、赤湯にも『火の車』が出きたというんで写真入りの記事を出してくれてよう、先生のシャシンとオレが店の前に立ってる写真とを並べて出してくれたんです。ところがその新聞の記事がいやにきいちゃって、ちっちゃい店は押すな、押すな、オレの新しい人生が始まったというわけです」
「んだ、んだ、出前もよくやったな。玄関からはいって酒と芸妓でドンチャンやってたオレが今度は裏口から今晩は、だ」
『火の車』の「すし文」は今でもあるのだろうか。
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