三浦海岸
8月17日(日)
死んでしまった人は、夢のなかでは生きていることが多い。だいたい生きている。山岸さんは亡くなってからずいぶん経つ。20年近いかもしれない。山岸信郎氏は真木画廊・田村画廊の主人だった。
稲毛駅前のサンジェルマンでアイスコーヒーを買って座る席を探していて、ひとつだけ空いているカウンター席があった。隣に、ちょっと小太りのおじさんが、ふんぞりかえって座っていた。テーブルを見ると、アイスコーヒーのコップが二つ空になったまま置かれていた。空になった皿もあったので、サンドイッチかなんかを食べたのだろう。
「あら、山岸さん!」
「おお、吉岡君か」
「久しぶりです」
「吉岡君、ちょっと頼みがあるんだけど」
「何ですか?」
山岸さんは、伝票をひらひらさせながら
「これ、半分だけ払ってくんないかな?」
と言う。
「はい、いいですよ。半分じゃなくて全部払っておきますよ」
「いやいや、半分でいいんだよ」
「全部払いますって」
わたしは伝票を奪い取った。
夢の中で山岸さんに奢ったのは、たぶん、彼にそういうイメージがあったからだろう。
かなり昔の話になるが、あるとき、神田のときわ画廊に寄ったときのことだ。長靴を履いた山岸さんが画廊に入って来た。天気のいい日でも長靴を履いていた。靴がなかったのかもしれない。
「大村さん、5000円貸してくれないかな?」
大村さんというのはときわ画廊のディレクターである。大村さんは財布から5000円札を抜き取って山岸さんに渡した。
また、ある日の真木画廊でのことだ。高橋睦治さんが個展をやっていた。彼はお腹が空いたので近くの立ち食い蕎麦で天ぷらそばを食べに行くと言って出て行った。帰りに、やはり天ぷらそばを持ち帰りで一杯買ってきて、山岸さんに渡した。山岸さんは美味しそうにそれを食べていた。
今日は、これから倉重光則の作品を見に行く。一緒に何か食べるだろうから、今日はおれが奢ろうと考えながら電車に乗った。
品川から京急線で三浦海岸に行く。けっこう遠いなと思ったら、三崎口の一駅となりなのだった。初めて降りる駅だ。稲毛から2時間以上かかった。6時過ぎていた。駅から電話すると、勝又さんと倉重がすぐ迎えにきた。近くの公園の木の下に作品はあった。足場が組んであり、その上の例の小屋があり、その壁に「EBE」(イーバ)が青く光っていた。
これは倉重の個展かと思っていたら、そうではなくて、三浦市主催の野外展なのだった。他にも街中や海岸に作品が展示してあるようだ。会期も今日が初日ではなくて、もう前から始まっていたようである。ただ、倉重は、案内に今日が初日として書いてあった。会期が長いので、お知らせには短く会期を書いた。会期が長いと、見に来る人が違う日にばらばら来て接待が大変になるので短くしたようだった。
「こういう展覧会だって知らなかったんだよ」
つまりグループ展ということだ。三浦市は倉重にそのことはわざと伝えなかったようである。もし、これがこういうグループ展だったら、倉重は参加しないだろうと考えたらしい。
「もし、グループ展てわかってたら参加しなかった?」
「しなかった」
三浦市の担当者は、倉重の性格をよくわかっているのだ。
いちおう今日が初日だからほかにも誰か来てるかなと思ったのだが、今日の見学者はわたし一人だけだった。
車で海岸に移動した。おお、海だ。海を見て砂浜を歩く。ことしの夏はどこにも行かないから、三浦海岸が唯一のお出かけということになるな。
近くに喫茶店があって、そこのサンドイッチが美味しいというので出かけた。ところが、お店は今日は7時までなのだった。時計を見ると7時をずいぶん過ぎていた。知り合いの店だから入ってみようと言って、倉重は閉店と書いてある扉を開けた。
「まだいいかな?」
「おお、いいよ。でもコーヒーとケーキしかないよ」
メニューに載っているサンドイッチの写真を見ると、1000円だったが、すごく美味しそうで1000円でも納得なのだった。今度来た時に食べよう。勝又さんとおれはコーヒーとケーキ、倉重はコーヒーゼリー。ケーキもコーヒーも全部手作りだそうだ。
わたしは今日見た山岸さんの夢のことを話して、今日はおれが奢るよと言ったが、倉重は、ダメダメと言って、支払いを済ませてしまった。
今度、夢の中で倉重に会ったら奢ろう。
「山岸さんか、懐かしいね。おれさ、山岸さんに奢ってもらったことあるんだよ」
「ええー!!山岸さんが奢ったの??」
「そうなんだよ。山岸さんが、おれの企画展を初めてやってくれたときなんだ。それも3か所で。真木と田村と、あと…」
「駒井でしょう?」
「そうそう、駒井画廊」
山岸さんは当時、神田にギャラリーを3つ持っていた。そのあと、山形にもルミエールというギャラリーを開いた。
「それが初めて企画でやってもらった時でうれしかったなあ!」
倉重はいまでは大御所なので、企画展だけでやっていると思っているかもしれないが、昔は、みんな画廊代を払って個展をやっていたのだ。大物ほど個展はレンタルでやっていたのだ。
「でさ、今日はおれが奢る、と言って、近くの食堂に連れて行ってくれたんだよ、山岸さんが」
「へえ~!」
「店に入ったらさ、山岸さんが、ライス二つ!って言うんだよ」
「え、ライスだけ?」
「ライスだけ」
「で、どうしたの?」
「テーブルに漬物置いてあるじゃん、それで食べて、あとは醤油をかけて食べた」
「……」
山岸信郎は、やはり大物である。
その話を聞きながら食べる、ケーキとコーヒーは美味しかった!
倉重が、どうしても今描いている絵を見てほしいというので、アトリエに寄る。ベニヤ板で作った面に絵が描いてある。20号か30号くらいの大きさの板が何十枚も立てかけてある。垂木で額も作ってある。前から絵を描くと言っていたのはこれかあ。EBAの小屋を解体した木で作ったのだという。
「吉岡に、下手くそ!!って言ってもらいたいんだよ」
真っ黒に塗りつぶしたシリーズ、それと正方形のグリッドのドローイング。そしてもう一点は、カラフルな色をちりばめた星空のような絵だ。これは、誰も倉重の作品だとわからないだろう。なかなか良い。わたしは思わず
「上手だねえ!」
と言った。この作品群は、まだどこで発表するか決まっていない。ベニヤ板は耐久性がないから、絵の表面と裏面にアクリルのメディウムを塗っておいたほうがいいよ、とアドバイスする。
三崎口から電車に乗る。家に帰りつくまで3時間かかった。
| 固定リンク
« ラヴクラフト | トップページ | ガツンと来る小説 »


コメント