実存主義
5月4日(土)
張騫の搬入の日。12時からの予定だったが、張からメールで1時間遅れますとのこと。寝坊したのか。そうではない、まだ作品を描いているのである。今描いているということは当然徹夜である。徹夜って若い時にしかできないよね?みなさん徹夜ってできます?20代のころ生徒の通知表を書くので徹夜したことはあるが、30代でもう徹夜はできなくなった。「朝まで飲んだ」とか言う人がいるが、驚くのは酒豪ぶりではなく、よく寝ないでいられるなあというその体力についてである。でもまあ、徹夜できるから何なの?とも思う。その体力を羨ましくは思わない。別なところで使った方がいいと思う。
張はわたしと二人で搬入を始めたが、なんだかふらふらしている。途中で、中国の大学での後輩という二人が手伝いに来たが、ほとんど終わっていた。今回の作品は小品8点だけだから簡単に終わってしまうのだ。
搬入が終わって、バルコニーで休む。後輩二人にはビールを出したが、張は遠慮した。
「今飲んだら死ぬ」
8点しかないので、逆に展示が難しいが、いろいろ考えて、わたしがアイデアを出した。スペースは十分あるのに敢えて二段掛けにするという奥の手を提案してみると
「それいいですねえ!」
とすぐに納得する。彼は理解がものすごく速い。
張はなるべく毎日ギャラリーに来たいと言っている。月曜日はワインを用意しておこう。
搬入後、コバヤシ画廊の前本彰子展を見に行く。この人の作品はいつ見ても新鮮である。前本さんも居た。
「ステップスの階段昇れなくてごめんね」
「いやいや、無理はしないでください」
コバヤシのスタッフが、あ、そうだお聞きしたいことがあったんです、という。ステップスギャラリーは英語で表記するんですか?わたしはどっちでもいいですが、正式には英語ですと答える。SとGは大文字ですね?そうです。
彼女は今、夏の「新世代への視点 2024」のプレスリリースを作っているところなのだった。
ウテさんからメール。日本に着いたとのこと。渋川の個展には来れるか?というので、12日に行くよと返信。今月いっぱい日本に居るので、ステップスに顔を出す。山形田でまた蕎麦が食べたい。よし、行こう!と答える。パウラ・モーダ—ゾーン=ベッカーの本とDVDも持ってきたとのこと。
サラ・ベイクウェル 『実存主義者のカフェにて』を読み終わる。
この本は2016年に出版されているが、ウクライナやガザの戦争を見越して書いたとしか思えない内容である。実存主義は流行に過ぎないと言われたりしたが、今現在は、実存主義が唯一有効な哲学なのである、ということだ。
美術に関する記述もある。
「1948年、ベルリンを訪れたのと同じころ、ボーヴォワールはペンを手に、真っ白な紙を見つめていた。そのようすを見て、アルベルト・ジャコメッティが声をかけた。「ひどく気難しい顔をしているじゃないか」。ボーヴォワールが答える。「書きたいのに、なにを書けばいいかわからないのよ」。ジャコメッティにとってはしょせん他人事だ。「なんでもいいから、とにかく書けばいいさ」ボーヴォワールはその言葉どおりにした。すると、うまくいった。」
ジャコメッティはボーヴォワールやサルトルと友達だったそうだ。
セザンヌに言及した箇所もある。セザンヌを現象学的に見るとこうなるのかな。
「そもそも現象学が追及していた、事象そのものへ立ち返りそれを記述することであり、「ふつうなら言葉にしないこと、描写できないと思われていることを、詳細に言語化しようとする」ことだった。そのような哲学は芸術の形態をとってあらわれる場合があり、メルロ=ポンティが例に挙げるのはセザンヌだ。セザンヌは日常の静物や風景を描くなかで、世界を新しく捉え直し、人間に観察される以前とほぼ変わらない状態に戻していく。メルロ=ポンティはあるエッセイでセザンヌについてこう記している。「この画家にとっては、不思議さを感じ取る感覚だけが可能であり、実存のたえまない再生という抒情性だけが可能なのである」。別の評論では、ルネサンスの作家ミシェル・ド・モンテーニュを評して、「自己満足した理性ではなく、自分自身に驚く意識を人間存在の中心に」置いたと記している。」
他にも紹介したい箇所がいくつもあるのだが、驚いたのは、サルトル、ボーヴォワール、カミュ、ハイデッガー、フッサール、メルロ=ポンティなどの最後にコリン・ウィルソンを持って来ていることだ。びっくりしながらも、なるほどとも思わせられたのだった。
翻訳者の向井和美さんは、「訳者あとがき」のなかで、こんなふうに言う。
「「大きなもの」に従って戦争に巻き込まれ苦しんだ人々が、第二次世界大戦後、実存主義に救いを求めたことはよく理解できる。人間は自由である。ゆえに自分の行動に責任を持たなければならない。それはめまいがするほど苦しい自由でもある。それでも、大きなものに唯々諾々と従うよりははるかにいい。現在、ふたたび大きなものにだれもが従いたがる時代になりつつあるように見える。だからこそ今、実存主義が新鮮に感じられるのかもしれない。」
最期に、死についてのサラ・ベイクウェルの表現の美しさにわたしは打たれたのだった。
「しかし、残念ながらそれは人間に与えられれた取り決めである。わたしたちが現象学を味わうことができるのは、いつかそれが奪われるからこそなのだ。自分の場所を明け渡せば、森はふたたびそこに茂みを作る。唯一の慰めは、木漏れ日の美しさを目にしたこと。なにもないのではなく、そこになにかがあったということ。」
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