現代はマニエリスムの時代か
今年最後の古藤さんの個展も無事に終わり、わたしはめでたく冬休みに入りました。あとはギャラリーの掃除をすれば終了でです。2023年もなんとか最後までたどり着きました。今年も様々な面でステップスギャラリーにご協力いただきありがとうございました。
来年はギャラリー14年目に入る年になります。体力も集中力も格段と低下するなか、ギャラリーを続けていくのはけっこう辛くなってきているのですが、気合を入れて2024年も良い展覧会を提供していきたいと思います。引き続きギャラリーに遊びに来てください。
わかりきったことなのですが、冬休みは本を読もうと思っていても、実際はほとんど読めない、というか読まないのです。分かっているのです。でも、一応、こんな本を読もうと考えています。
セリーヌの『夜の果てへの旅』はあと少しで読み終わるので、まあこれはクリアできるだろう。
次に残っているのは若桑みどり『マニエリスム芸術論』と野溝七生子『梔子』だが、2つとも大著なのでどうなるか分からないが、なのにもう一冊買い足してしまった。渡辺京二『近代の呪い』(平凡社ライブラリー)
『マニエリスム芸術論』を序章だけ読み始めた。研究論文というものには「初めに」とか「序文」というものがある。じつはこの「序」というのが論文全体のまとめになっているので、短く、要約されているので、いちばん読みごたえがあるのだ。論文で何が言いたいのかということが書かれている。若桑さんは何が言いたいのか。一言でいうと「現代はマニエリスムの時代だ」ということだ。ほほう、そうなのか。
美術史では、各時代の特徴をさまざまなネーミングで区分する。古典主義、バロック、ロココ、印象派、シュルレアリスム、キュビスム、抽象表現主義、ポップアート、などなどさまざまである。では今わたしたちが生きている現代の美術を何と呼べばいいのか、じつははっきり、これだ、というネーミングはない。高階秀爾は「現代はバロックだ」と言うのだが、若桑さんは「現代はマニエリスムの時代だ」と言うのである。
こんな箇所を読めば、なるほど、と頷いてしまう。
「マニエリストの様式的特性は、何にもまして自己同一性の喪失、作品の「つぎはぎ」性にあるからだ。どこを切っても彼自身であるような、自然発生的で独自で固有の個性は、それだけでもうマニエリストではない。自然なもののすべてがマニエリストに反する。合成品に似た、人為的構成物の色合いは、合成品の文化に生い育った我々にはただちにそれと見分けがつく。ことばを広く用いるなら、レディ・メイドのものから成り立っているすべての芸術は、マニエリスムである。」
芸術は自然の模倣である、というような論はもう古いのである。自然をそのままに描写するということは、われわれはもうやり切ってしまったのである。もうやるべきことはないのである。ポストモダンなのよ。
「マニエリストにとっては、芸術は完璧な「虚」の世界である。しかしそれがまがいものだということはない。かれらは神のつくったものを模倣するのではなく、神の創造を模倣しているのである。」
気合いを入れて読まなければならないなあ。
最初のマニエリストはミケランジェロである、という研究者にとっては当たり前のことさえ、わたしは知らなかったということの自分の無知を恥じなければならない。
2024年は1月8日からの倉重光則展で始まる。
1月5日と6日でセッティングする予定である。
ブログも5日か6日から始める予定です。
みなさん、よいお年を!
| 固定リンク
コメント