コラボの意味
最初に結論を言うと、コラボレーションとコラボは意味が違う、ということだ。
コラボレーションという言葉が日本で流行ってきたのは、おそらく40年以上前じゃないだろうか。美術の世界でも、アンディ・ウォーホルとバスキアが共同で1枚の絵を仕上げたときに、コラボレーションという言葉が使われて、共同作品のことをコラボレーションというようになった。
コラボレーションというのは共同とか協力という意味であるが、これを短縮してコラボと言うと、その意味は「協力者」となる。人間である。ただの協力者ではない、ヒトラーのナチズムに協力した人、加担した人いう意味になるのだそうだ。「あいつはコラボだ」と言うと、ナチスの仲間だということになる。
これをわたしはセリーヌの『夜の果てへの旅』の解説で知った。受け売りである。
セリーヌはコラボである。ハイデガーもコラボである。
日本ではコラボレーションのことをコラボと言っているが、コラボというのはそういう言葉だよということは知っておいた方がいいかもしれない。
さて、セリーヌである。戦後、コラボと非難されたセリーヌは、デンマークに亡命するが、そのまま投獄されてしまう。その後特赦を得てフランスに帰国するが、文壇からは完全に無視され、作品は忘れ去られてしまう。晩年は貧困の中、1961年に死去する。
セリーヌが再評価されるようになったのは、それほど昔のことではない。中上健次は「ぼくはセリーヌを読まなかったら小説家になっていない」と言っている。
『夜の果てへの旅』が出版されたとき、ベストセラーになった。面白いのである。反戦的な主張と厭世的な雰囲気が時代に合っていたのかもしれない。内容から、セリーヌは社会主義、あるいはプロレタリア文学の作家とみなされ、左派と目されるようになる。トロツキーが『夜の果てへの旅』を読んで、この人は社会主義ではない、と言ったのは慧眼だったかもしれない。トロツキーは「社会主義には希望があるが、セリーヌの小説には希望がない」と鋭く突くのである。
こんな箇所はセリーヌらしい雰囲気が出ている。
「金持は食わんがために自分で人を殺める必要はない。奴らは、奴らの言い方を借りれば、人を使うのだ。自分で悪事を犯さない、金持ちたちは。金を払うのだ。世間の奴らは金持を喜ばすためならなんでもやるし、どいつもこいつもそれを栄誉と心得ているのだ。金持の女房は美しいのに、貧乏人の女房は醜い。こいつはおめかしということは別にしても、数世紀に由来する結果だ。栄養のいい、手入れの行き届いた、かわいい美人たち。生活始まってこのかた、結果はいつでもこうだ。
あとは、いくら苦労してみても始まらない。足をすべらせ、足をすくわれ、生者をも死者をも区別なく浸す、アルコールの中に落ち込み、身動きがとれなくなるだけだ。証明ずみだ。そのうえ何千何百年の昔から、獣たちが、ほかの数知れぬ獣たちのあとを受け、同じ無味乾燥な失敗を継続すること以外、何ひとつ楽しいことも起こらぬまま、僕らの眼前で生まれ、悩み、死んでいくさまを、見せつけられてきた。とにかく現実をさとるべきだ。」
ウエルベックの小説の雰囲気にも似ているような気がする。
セリーヌは第二次世界大戦が起こる前、起こってから、次第に反ユダヤ主義を標榜するようになる。ナチズムの思想にも共鳴するようになっていく。なぜそうなってしまったのか、それはわからない。研究者の間でも意見は分かれるようである。
コラボだったということを聞くと、この人の小説もたいしたことはないと思ってしまいそうだが、政治思想と作品は別物である。
ハイデガーもナチス加担者として非難されてきたが、作品は読み継がれている。
『なしくずしの死』という作品も文庫で出ていたはずだ。探してみよう。
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