二種類の美しさ
今、唐さんが来廊。ウィスキーのお土産を持って来てくれた。お母さんといっしょにイギリスとフランスに旅行に行っていたのだ。親孝行だね。イギリスのスコッチウィスキーは開けて飲んでみたら、かなり強いけど美味しい!アルコール度数46度。ちびちび飲むことにしよう。
かなり昔に、カントの『純粋理性批判』を読もうと思ったことがあったのだが、最初の1ページ目であきらめた。理性という言葉が出て来た。理性ねえ…つぎに悟性という言葉を見てあきらめたのだ。その言葉だけで何のことか皆目見当がつかないのだ。
このあいだ本屋さんで、個人全訳の『判断力批判』が出ていたので、開いてみると、あら?なにこれ、読めそうじゃん。読みやすいかも。よし、買ってみよう。
カント 『判断力批判』上・下 中山元 訳 (光文社古典新訳文庫)
「上」は美についての論が多いので楽しい。
「二種類の美しさ」が目を引く。
「美しさには二種類のものがある。自由な美しさと、たんに付随的な美しさである。」
自由な美しさについて
「花は自由な自然美である。ある花がどのようなものであるべきかを知っているのは、植物学者だけである。しかし花を植物の生殖器官として認識する植物学者でさえもその花を趣味によって判断する場合には、この生殖と言う自然目的をまったく考慮に入れない。」
付随的な美しさについて
「ところが男性の美しさ、女性の美しさ、子供の美しさなど、人間の美しさというものは……その事物が何であるべきかを規定する目的の概念を前提とし、したがってその事物の完全性の概念を前提としているのであり、これらは付随的な美しさである。」
こういうことである。花は美しさの完全性を前提としていない、つまり花びらがもう少し大きかったらいいのに、とかオシベの数が少ない、とか花に対して注文をつけなくても、花はそのままで美しい。これが自由な美しさ。
たとえば美人の評価をするときは、そのまま、美人だねえ、とか言うだけでなく、目がもう少し大きいともっといいとか、眉毛が薄い、とかいろいろと注文をつけたがる。それはどうしてかというと、我々の心の中に、理想の美人像があって、それに照らし合わせて判断をするからなのである。これが付随的な美しさ。
来週は「木工男子」だが、これは9月27日(水)からになります。
相澤秀人・勝田徳朗・木下敦也・菅沼緑・前田精史・槙野央の6人の男子。
この「木工男子」というタイトルは、わたしが考えたタイトルの中でもかなりいいセンいっていると自負している。展覧会の内容説明がいらないからである。
みんなかなりの年齢なのに男子というのはどうなの?というとんちんかんな質問をする人がいるが、そもそも「男子」というのは子供の男という意味ではない。「男子」は中国語では青年、壮年という意味なのである。
老年という意味もあるかどうかは知らないけど。
彼らの作品が、自由な美を表わしているか、付随的な美なのか、どうぞ確かめに来てください。
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