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2023年8月18日 (金)

ギャラリーでぼうっとする

休みの予定が何もない。毎日本屋と喫茶店をぶらぶらする毎日である。暑い。

ギャラリーに来てみた。作品を作ったり、文章を書いたりと、やるべきことはいろいろとあるのだが、なかなか手につかず、ただぼうっとして過ごすだけなのだった。

本を読むのも疲れるので、なかなか進まない。このあいだ買った本は、「ファビアン」だけ読み終わったのだが、他の本を読む前にまた2冊買ってしまって、そちらの方を先に読み始めてしまった。

ベイトソン 『精神の生態学へ』下(岩波文庫)

ミラン・クンデラ 『生は彼方に』(ハヤカワepi文庫)

教文館にクンデラのコーナーがあった。クンデラはこの間亡くなったので、追悼コーナーだ。文庫の作品が全部並んでいたのだが、まだ読んでいない本が一冊あった。『生は彼方に』である。

クンデラになぜノーベル賞が回ってこなかったのか。不思議である。

井筒俊彦が、イメージについて書いていたことと同じことをベイトソンが言っていて興味深かった。

人が木を見る。それは木そのものを見ているのではなく、眼から入った情報を一回頭(脳)の中でイメージに変えて、われわれはそのイメージを見ているのである、というのが井筒さんの語るところであったが、ベイトソンはこう言っている。

「知覚について論じる場合、たとえば ”I see a tree”とは、もはや言えない。サイバネティックな説明体系に「木」が入り込むことはないからだ。「見る」ことができるのは、木が複雑で体系的な変換プロセスを通過した後の「イメージ」である。このイメージにエネルギーを供給しているのは、いうまでもなく、わたしの代謝作用であり、そのイメージがとる姿の決定には、わたしの神経回路の中にあるさまざまな要因が関与している。」

「限られたことしか意識できないわれわれにとって、問題は何が意識に届いてくるのかということです。精神は、どんな原理によって、”あなた”が意識するものを選ぶのか。このプロセスで作動している原理の多くは意識化することのできない性格のものでしょう。しかし、これについて分かっていることもある。それはまず、意識の走査にさらされるものが、無意識の知覚過程においてすでに処理された後の情報であるということ。すなわち、感覚器官に入ってきた出来事がイメージにまとめあげられ、イメージになったものがはじめて意識に届くということです。」

カントが「もの自体」を知覚することができない、と言ったのはこいうことなのだろうか。わからない。

コトバの発生についての箇所も面白かった。

「人間のコトバのシステムが、身振りやトーンによる似像(アイコン)的性格の強いシステムとはカテゴリーを異にし、後者から単純に発生したのでないことは断言してかまわないだろう。ヒトの進化過程でコトバが現れ、動物の、より素朴で大まかなコミュニケーション・システムに置き換わったという見解が流布しているけれども、これはまったくの間違いだとわたしは考える。」

身振りや表情とかがコトバに変わっていったのではないということだ。身振りや表情がコトバに進化していったのだとしたら、古いほうの表情や身振りはすたれていったはずだ。

「ある方法が受け持っていた機能を引き受ける別の方法が現れたときには、古い方法は使われなくなって衰退するのが常であるからだ。冶金の技術が登場すれば、堅い石を砕いて武器を作る技術は廃れるのである。」

「ヒトのキネシクスはコトバの発展と並行するように、一段と複雑な、表現豊かなものになってきているのだ。われわれは美術・音楽・バレエ・詩など、キネシクスとパラ言語による精緻な作品を愉しんでいるし、日常のコミュニケーションでも、顔の表情の微妙さ、声の抑揚の精密さは、知られている動物の表情や鳴き声の比ではない。人間はアナログ信号ではなく、論理的に明晰なデジタル信号でコミュニケートすべきだと考える人もいるようだが、彼らの理想はまだ達成されていないし、今後とも達成されることはないだろう。」 

唸ってしまったのは「パターン」の定義である。

「パターンとは、全体が観察できないときに、遮蔽された向こう側に何があるか推測することを許す物事の集合である。」

なるほどねえ…

サイバネティックスってすごく難しいんだけど、考え方の基本は肯定ではなく否定で考えるのがサイバネティックスであるというのが分かりやすい、というか、とっかかりを示してもらったような気がする。

閉鎖空間に、佐藤さんと田中さんが二人だけ居るとする。ふつうは、佐藤さんを選んだ時に、「この人は佐藤さんです」と言うわけだが、サイバネティクスでは「この人は田中さんではありません」と表現するのだ。

ほう……

「サイバネティックな説明が否定形式をとっているという点から、一つの疑問が生じる。「正しい」と「間違っていない」とは同じことなのか?迷路の中のネズミは「正しい通路を学習した」のだろうか、それとも「間違った通路を避けることを学習した」というべきなのだろうか?」

ためになるなあ…

さて、そろそろ仕事するかな。

21日(月)は槙野央展の搬入がある。

暑くてもがんばろう。

 

 

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