紐がからまる
えーと、まず来週のわたしの個展から。
7月5日(水)- 15日(土)
逃走計画というタイトルにしました。英語タイトルはchain breaker。
案内状にあるような幾何学形態作品を18点。板に彫刻刀で線を彫って着色しています。
テープ作品も一点壁に作ります。
以前の「waiting room」シリーズと同じ系列です。
入口にチェーホフの言葉を掲示する予定。
どうすればいいかとおっしゃるのですね?
あなたの立場で最良の方策、
それはここから逃げ出すことです。
(チェーホフ 『六号室』)
初日はパーティーなどは予定していませんが、知り合いが集まってきたらワインくらいはサービスいたします。
グレゴリー・ベイトソンの 『精神の生態学へ【上】」を読んでいて、はっ!と気がついたことがある。
わたしがずーっと疑問に思っていたことが解明したのである。
わたしの疑問というのは、長い紐をかばんに入れて持ち歩くと、何もしないのに自然と紐がからまってくるのはなぜか?ということである。かばんを持ち歩くと、電車で揺れたり、かばんの中の物をごそごそと漁ったりするたびに少しずつからまっていくのだろうが、それにしてもそのからまり方が尋常ではない。紐結びから蝶結びのような複雑なからまり方までするのである。放っておくと、さらにどこまでもからまっていき、どうしてもほぐせないくらいに固まっていく。これはいったいどうしてなのか?
逆にですよ、最初からからまった紐をかばんに入れたらだんだん少しずつほどけていく、ということが起こってもいいのではないか。ところがそういうことは起こらない。さらにからまりがひどくなっていくだけである。
ベイトソンは「物はなぜゴチャマゼになるのか」という編のなかで、父と娘の会話を通してわかりやすく解説する。
「パパ、物はどうしてゴチャマゼになってしまうの?」
という問いかけで始まる。
父 それじゃ、おまえの絵具箱が片づいてるときの場所って、ずいぶん少ししかないことになる。
娘 一つだけよ。
片づいている状態は一つなのに、ゴチャマゼは数限りなくある。
父 人間は希望的観測というのをする。こんなことが起こらないかなあ、とね。そこへパパが出かけていって言ってやる。残念ながら、そうはいきません。ほかに起こるかもしれないことが、こんなにたくさんあるじゃないですか、って。間違いないんだな。起こるのはたくさんあるうちの一つの方。
紐がからまるのと同じだ。紐がからまっていない状態というのは一通り。からまっている状態は無数。何万通り、何億通りだってある。からまった状態からからまっていない唯一の状態に戻ることはないのだ。
やっと長年の疑問が氷解した。
ベイトソンはエントロピーをわかりやすく解説しているのだ。
芸術、美術に関する記述も面白い。
「アレゴリーというものがあるが、これは通常の創造プロセスが逆転されたものであり、芸術と呼ぶにしても趣味のいいものとは言えない。典型的なアレゴリーでは、まず「真実と正義」というような抽象的な関係が、合理的なマインドによって発想される。そしてその関係が後に隠喩化され、一次過程の産物らしく飾り立てられる。こうして抽象概念が人間の姿で登場し、神話もどきの世界で立ちふるまったりする。広告芸術の多くも、本来の芸術とは創造過程が逆転しているという意味で、アレゴリーの仲間に入れていいだろう。」
「芸術作品に見られる歪み(たとえばファン・ゴッホの描いた例の"椅子")が、芸術家の「見た」ままを直接表現しているかのような言い方が、ときどきされる。「見る」という言葉が、ここで物理的な(つまり眼鏡で矯正できる種類の)視力を指しているとするならば、その矛盾は明白だろう。そんな歪んだ椅子の像しか結べない目は、キャンバスに正確に絵具を置いていく役をうまく果たしてはくれまい。逆にまた、キャンバス上に描いた写真のようにリアルな椅子の絵をも、ゴッホの眼が同じように歪めて見るのであれば、そもそも歪めて描く必要などないわけだ。」
昨日、井伏鱒二の 『広島風土記』(中公文庫)を読んだ。面白くなかった。井伏の作品はほとんどが面白いのだが、これは全然面白くなかった。こんなこともあるんだな。
で、急遽、2冊買い足した。
笹井宏之 『えーえんとくちから』(ちくま文庫)
ソール・フリードレンダー 『ナチズムの美学』(ちくま学芸文庫)
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