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2021年9月 3日 (金)

宮田徹也の古川巧評

現状と未来に警告を響かせる。 古川巧 2021/08/30-09/04 steps gallery Criticism by MIYATA Tetsuya Vol.300

古川巧、ステップス3年振り2度目の個展である。古川の略歴や作品の特徴などは、この連載の210号を参照して欲しい。今回、古川は愛猫を亡くした悲しみを作品の動機とした。入り口には猫の写真が三枚、展示されている。ギャラリー入って右と正面の壁面には、騒然と小品が並んでいる。左には大作が、背後に当たる部分には中作が展示された。事務所にも何点か。40点以上ある。
私も13歳から25歳の時に、猫を飼っていた。ゴキブリがでて殺虫剤を撒いた次の日、呼吸困難に陥り、絶命した。その時から私はゴキブリが出ても、絶対に殺虫剤を撒くことを止めた。猫を失った悲しみは深い。私の場合は、私が寝るとよく布団に入ってきて、私の胸元で蹲るのだ。思い出しただけで悲しくなってくる。そのような経験があるので、私にも古川の気持ちが良く分かる。
ここに出品されている全ての作品が、古川の猫である。具体的に描かれているもの、抽象的になってしまったもの、形姿が猫に見えないもの、時の総理大臣に見えるものも、全て古川の猫なのである。古川は飼い猫の全てを知っている。素早く動く姿、日向ぼっこしてのんびりしている姿勢、腹ペコになりご飯を貪る状態、寝姿など。その記憶をフルに生かして、様々に現象する飼い猫を描いている。
猫自体も、姿を変えることが出来る。所謂、化け猫である。猫は恐ろしいいき物だから、よく女性に譬えられる。猫みたいな男、とは言わない。化け猫をウキペディアで調べると、様々な逸話があるが、引用しない。私が思う化け猫とは、人間への思いからそうなってしまった状態を指す。すると古川の化け猫は、古川に対して愛があるからこそ、ここで化け猫と化したのではないかと私は感じている。
古川は化け猫を化け猫として描くのではなく、様々に変容する絵画として成立させた。これは古川の愛情が一方的ではないことを示している。つまり古川の自己満足ではなく、古川の愛と、猫の思いが一体化し、作品として成仏したのだ。成立と成仏、似たような言葉であるが、全く異なる。「天に召された」という西洋的な発想ではなく、全く異なるものへ、ヘンゲしたと私には感じるのである。
だから古川のこの作品群は、単なる「絵画」の議論に留めることはできないのだ。古川の作品は常に「絵画」の約束の枠に留まっていない。なぜか。「絵画」は自由な筈なのに、その枠に留まっている。それを、乗り越えていかなければならないからだ。すると、今回の作品群もまた、愛猫、化け猫との古川の関係という枠を飛び越えて、この悲惨な現状と未来に警告を鳴り響かせているのかも知れない。

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