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2019年5月 5日 (日)

そじる

4月29日にコレクション展の搬入が終ると同時に急激に体調が悪くなる。溜まった疲れが出たのと、気持ちが緊張から解放されて身体にまで影響しているのだろう。30日は一日寝ていた。起きようと思っても身体が動かないのだ。頭の中が空漠になり、眩暈に似たふらつきと眠さが襲ってくる。これはベーチェット病の発作である。まだまだベーチェット病はわたしを離してくれないようである。こういうときは寝ている以外に解決の方法がない。

5月1日、発作が治まらないまま山形へ。

新幹線の中でも、山形に着いてからも眼をつぶったままだった。

墓参りに行ったり、米沢の親戚の家に顔を出したりした。

米沢はわたしの生まれたところである。幼稚園まで米沢で過した。羽黒川という川に架かった橋の袂に「ばあちゃんの家」はある。

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しばらく歩くと大きな杉(?)の木がある。根元には弁天様が祭ってあり、ばあちゃんは毎日のように弁天様に挨拶をしに行くのだった。

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それにしても樹木は長生きである。わたしが赤ちゃんのころからあるこの木は今でもこんなふうに変わらずにいるのだから、人間の人生なんて儚いものである。

山形に行く度に、山形弁をチェックすることになるのだが、今回は「そじる」という言葉が耳に残っている。

一冊のノートがある。使い続けると所々シミができたり、紙に穴が開いたり、綴じ紐がほつれてきたりする。要するにボロボロになってくる。これを山形弁で「ノートがそじで来た」

と言う。

そじるというのは、古くなってボロボロになって汚れて使い物にならなくなることを言う。「そじる」にいちばん近い言葉は「劣化する」だろうか。

年をとると身体もそじる。わたしは身体だけでなく頭もそじてきている。

山形の実家に近くに八幡神社がある。小学校のころからここはわたしたち子供の遊び場で、この境内を駆け回っていた。ここの木も樹齢100年を軽く超えているのだろう。昔と変わらずそのままで生きている。そじていない。

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神社の通じる細い通り道があるのだが、ここに小さな石が埋め込んであり、地上部分は子供用の椅子くらいの大きさなのだが、これも、ずっと昔からそのままである。

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なんでもない石なのであるが、わたしは山形に帰るたびに、この石がそこにあるのを確かめに行く。あ、まだあった、と思って安心するのである。

石も木も、わたしの寿命の何倍もそこで「生きて」いくのであろうと思うと、すこし気が遠くなるのである。

5月4日

山形から東京に戻る。帰りにそのまま千葉まで電車に乗り、ギャラリー睦に行く。倉重光則+高島芳幸の二人展の初日に顔を出そうと思ったからだ。6時までだから間に合うだろうかと思ってギャラリーに電話をするとむつさんは「吉岡先生が来るまで開けてます」と言う。

ギャラリーに着いたときは、パーティーがほとんど終っていたが、むつさんはわたしに食べ物をとって置いてくれた。

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高島芳幸作品。

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倉重光則作品。

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5月5日

亀有の串田治宅に行く。奥さんが駅まで迎えに来てくれていた。

追悼展の打ち合わせと作品選びをする。実際にアトリエで作品を見ると、その数の多さに圧倒される。これでは、1回の展覧会では紹介できない。

夏になったら、選んだ作品を車でStepsまで運んでもらうことにして、わたしは小品を一つと、木のレリーフ作品をもって帰り、ギャラリーで壁に掛けてみた。

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これは1989年の作品。そじてないね。

追悼展の展示はかなり時間がかかりそうである。

 

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