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2018年6月21日 (木)

海辺の散歩

小説を読むときは、ストーリーを追うということにあまり興味はなくて、どちらかというと、印象的なシーンとか、こころに残るフレーズを探したり、格言になるような言葉を見つけたりするのが好きで、だから、途中から読んだりしてもあまり困らない。

『魔の山』も、そんな読み方で、気楽に読んでいる。真剣に読んだら、この小説はかなり疲れてしまうと思う。スイスのサナトリウムでの話で、登場人物も話の展開も面白くて飽きないのだが、会話文がとても難解なのである。しかし、そのなかに、ときどき、とても美しい描写があって、感心してしまう。「海辺の散歩」という章もその一つである。ブログで紹介するには、ちょっと長いかもしれないが、文庫本の1ページ強なので、小説全体の700ページに比べたら短いわけなので、この章の一部分を抜書きしてみる。

まるで詩を読んでいるような気分になれると思う。

「……波騒ぐ荒涼たる海、それは色あせ灰白色にひろがり、刺すような湿気があたりに充ちみち、その塩っぽい味が私たちの唇にも染みつく。私たちは、海藻や小さな貝殻の散らばった、軽い弾力のある砂の上をひたすら歩いていく。おおらかな穏やかな風が自由にひろびろと開けた空間を吹き渡り、私たちはその風に耳を包まれ、頭は気持ちよくぼんやりとしてくる。-私たちはいつまでも歩きつづけ、寄せては返す白波がその泡だつ舌で私たちの足を舐めようとするのを見る。寄せくる波は砕けて沸きたち、明るく、うつろな音を響かせながらはね返り、一波また一波と、平らな浜辺に白絹のように打寄せてくる、ここでもあすこでも、あの向うの砂洲でも。そして、このわけのわからない、あたり一面を充たしていながら穏やかにざわめいている波の音は、私たちの耳をふさいで、現世のあらゆる声をかき消してしまう。深い満足、そうと知りながらの、かりそめの忘却……私たちは永遠の懐にいだかれて眼を閉じようではないか。いや、見たまえ、あの白波の騒ぐ灰緑色の沖がおそろしく近くに見えながら、水平線の彼方に溶けこんでいるところ、あすこに白帆が浮んでいる。あすこに?あすこといっても、それはどういうあすこなのか。どのくらい遠いのだろうか。どのくらい近いのだろうか。それは君にはわからない。眼がくらくらしてどのくらい遠いのか、その判断がつかない。あの船が浜辺からどのくらい離れているか、それをいうことができるためには、君はあの船自体が物体としてどのくらい大きいかを知らなければならないだろう。小さくて近いのか。それとも大きくて遠いのか。そのいずれともわからないうちに、君の眼はいつしかかすんでしまうのだ。なぜなら君自身の中には空間を知る器官も感覚もないのだから。……私たちはなおも歩きつづける ― もうどのくらいの時間を歩いたであろうか。どのくらいの距離を歩いたのか。それはわからない。私たちがどれほど歩きつづけても、何ひとつ変りはしない。向うはここと同じであるし、さっきはいまと、またこれからと同じである。はかり知られないほどに単調な空間の中では時間も消えうせてしまう。一点から一点への運動は、完全に均一不変な世界にあっては、運動でなくなってしまうし、そして運動が運動でなくなれば、時間もなくなってしまうのである。」

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