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2017年7月13日 (木)

折れた槍

ドイツにもって行く文庫本を3冊買った。この中から1冊に絞ろうと思う。

田中英光 『空吹く風/暗黒天使と小悪魔/愛と憎しみの傷に』(講談社文芸文庫)

芥川竜之介 『朱儒の言葉/文芸的な、余りに文芸的な』(岩波文庫)「朱」は本当は人偏がつくのだが、わたしのパソコンはバカなので、字を知らないのだ。

夏目漱石 『吾輩は猫である』(新潮文庫)

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田中英光の本は持っていけない。なぜかというと、面白くて、もう読み始めてしまったので、ドイツ出発までには読み終わってしまうだろうからだ。田中英光は、太宰治より少し下なのだが、そのデカダンぶりは太宰以上で、かなり破滅型の作家ではある。あまりひどいので、作家仲間からは相手にされず、評論家にも評判がよろしくなかった。しかし、今読むと、しみじみと面白いのだ。だれも評価しないなかで、針生一郎だけが絶賛していたというのも面白い。太宰が情死した1年後に太宰の墓の前で自殺した。

芥川のこの本はかなり昔に読んだはずなのだが、今開いてみると、その言葉は、全く新しく感じられる。本当に森鷗外とか、夏目漱石とか芥川とか、このへんは、読ませるよねえ…

夏目漱石は、わたしはかなり読んできたのだが、なぜか『吾輩は猫である』だけは避けてきた。理由はわからない。でも、そろそろ読むべきときかな、と勝手な判断をしたわけなのである。漱石は、あっという間に漱石の世界に引き込んでしまうんだよねえ。すごいと思う。細かい注解がついているのもうれしい。言葉の解説が、これでもかというくらいついていて、これが煩いという人もいると思うのだが、わたしはこの注解をよむのが楽しみでもあるのだ。注解を書く人というのも、かなりの知識と情熱が必要なわけで、これを書いた人の性格とかを想像しながら読むのも一興なのである。

芥川も本としてはそれほどの長編でもないので、ドイツに持っていくのは『吾輩は猫である』にしようかな。決定!

さて、芥川の『文芸的な、余りに文芸的な』の最後に、「二人の紅毛画家」という面白い文章が載っている。ピカソとマティスについての短い感想なのだが、芥川の時代には、すでにピカソもマティスも紹介されていたんだね。このへんの時代感覚がよくわからない。芥川がこれを書いたのは1927年(昭和2年)だから、ピカソ46歳、マティス58歳のときである。ピカソもマティスも明治、大正時代の人なんだよねえ。

岸田劉生の時代は、これよりもう少し前だから、ピカソもマティスも出てこない。セザンヌやゴッホについての文章があるだけである。

でも劉生の時代には萬鉄五郎とかも居たわけで、そのへんぎりぎりの境界線だったんだろうな。

さて、芥川の文章であるが、彼はピカソをよしとしている。「槍の柄は折れた」というところに、芥川自身の格闘を重ね合わせているのだろうと思う。この文章を書いた2ヵ月後に彼は自殺している。

「ピカソはいつも城を攻めている。ジアン・ダアクでなければ破れない城を。彼はあるいはこの城の破れないことを知っているかも知れない。が、ひとり石火矢の下に剛情にもひとり城を攻めている。こういうピカソを去ってマティスを見る時、何か気やすさを感じるのは必しも僕一人ではあるまい。マティスは海にヨットを走らせている。武器の音や煙硝の匂はそこからは少しも起って来ない。ただ桃色に白の縞のある三角の帆だけ風を孕んでいる。僕は偶然この二人の画を見、ピカソに同情を感ずると同時にマティスには親しみや羨ましさを感じた。マティスは僕ら素人の目にもリアリズムに叩きこんだ腕を持っている。そのまたリアリズムに叩きこんだ腕はマティスの画に精彩を与えているものの、時々画面の装飾的効果に多少の破綻を生じているかも知れない。もしどちらをとるかと言えば、僕のとりたいのはピカソである。兜の毛は炎に焼け、槍の柄は折れたピカソである。」

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