2017年2月27日 (月)

小出恵理奈のリリシズム

今日から小出恵理奈展スタート。

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先週、わたしは、小出の作品は本格的である、と言った。どこがどういう風に本格的であるのか、説明をしなくてはならない。

小出は若手作家には珍しく、純粋に抽象画を描き続けている。それだけでも貴重な存在なのであるが、今回の作品は今までの彼女の作品とも大きく飛躍していて、全く新しい段階に入っているのではないかとわたしは評価しているのである。

「本格的」を説明するために、絵画とイラストはどこが違うのかという話から始めてみたい。少しややこしくて難しいことも言うかもしれないが、我慢してついて来て。ついて来れないかたは遠慮なく脱落してください。

イラストで表現するときの主眼というか目的というのは、そこに描かれているモチーフ、あるいは図像というものを見る人に伝えるというところにあるはずである。ところが絵画においては、必ずしも図像で何かを伝えるということが一番の眼目ではない。

たとえば、イラストで林檎を描いたとする。描き手は、その林檎の美しさや匂い、味までも表現するように心がけて、林檎の持つ魅力を伝えることになるだろう。

ところがこれが絵画の林檎だと、話が少し違ってくる。作者は、林檎の置かれたテーブルとか布とか、その場の状況や雰囲気を表すことに腐心していて、林檎そのものの魅力を伝えようとはしないのである。たとえばセザンヌの描く林檎では、セザンヌがどうしても林檎を描きたかったというわけではなく、林檎を使って、他のメッセージを伝えようとしているのだ。

では何を伝えようとしているのかというと、それは「空間」なのである。

われわれの生きている現実の空間を描きながら、現実とは違う独特の空間を描き出すのが絵画なのである。

イラストは、結果的に面白い空間を作ることがあるかもしれないが、あくまでも何が描かれてあるかが重要なのであって、どう描かれているかは2番めの目的なのである。

イラストと絵画はどっちが上か、という話ではない。モチーフをどういう風に扱うのかという違いがあるだけなのである。

シュールレアリスムの絵画は、その不思議さによって、独特の絵画空間を現出させて、我々をその空間に誘い込む。キュビスムの絵画は、視点の移動や圧縮や単純化によって、これも独特の空間を生み出して、現代のわれわれの住む空間を再認識させる契機にもなっている。

絵画とは、新しい空間を作り出すことなのである。

もちろんこれはあくまでも美学的な問題であって、一般の人が、絵画から受け取るメッセージは多様であるに違いない。絵画から、人生の楽しさを味わったり、慰めを貰ったり、パワーを感じて元気になったりすることを妨げるものではない。

しかし、美学的に見た絵画の構造分析は、それはそれで一つの楽しみになるのである。

小出の絵画は、新しい絵画空間を作ろうと努力をしているという点で本格的である、ということなのである。

「too much play」 綿布に油彩 130.3×194.0cm 2017 ¥800,000

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一筆一筆に緊張した流れが感じられる。少しずつ近づいてみよう。

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一つのタッチを画面に置くと、次の一筆は、前のタッチとの関係を考えて描かれ、そこに空間が生じる。その空間を生かしながら、次の空間がレイヤーとなり、次第に複雑になっていく。

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けっこう難しいのである。しかし、そういう苦労や逡巡を通してやがて、そこにリリシズムが生まれてくるのである。

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絵を描くって大変なことなのである。

「insipid」 木に油彩 21.0×29.5cm 2017 ¥19,000

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「calm」 綿布に油彩 31.8×41.0cm 2017 ¥42,000

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「botany」 紙に水彩 10.0×14.8cm 2017 ¥8,000(額込)

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「holiday-making #1」 紙に水彩 31.8×41.0cm 2017 ¥21,000(額込)

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小出さんは毎日夕方6時過ぎにギャラリーに来ます。土曜日は一日詰める予定です。











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2017年2月25日 (土)

本格的

2月23日(木)

今日はわたしがギャラリーでトークをする日。「プロになる」という話をした。若い作家や学生さんを念頭に話をするつもりだったので、若い人は来るだろうかと心配だったのだが、東北芸工大の学生さんが数人と、若い作家も何人か来ていたので一安心。

もちろん「若くない」方々も来ていたが、それはそれで面白かった。

話の内容を曽根原さんが紹介してくれているので、話の内容については、そちらをご覧いただくと分かりやすいかもしれません。

mmpolo

で検索してみてください。

わたしはぶっちゃけトークで、言いたいことを思い切り言ったので、すっきりしたのだが、でもトーク終了後はなんだかへとへとに疲れてしまった。

2月24日(金)

今日は一日ギャラリーをお休み。昼過ぎまで寝ていた。

午後は本屋さんをぶらぶら。

今読んでいる本がなかなか進まずに、これから読まなければならない本もあるのに、また2冊買ってしまった。

樋口毅宏 『民宿雪国』(祥伝社文庫)

ジム・ホルト 『世界はなぜ「ある」のか?』(早川ノンフィクション文庫)

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樋口毅宏は『さらば雑司ヶ谷』が面白かったので読んでいるが、この作品も面白そうである。

『世界はなぜ「ある」のか?」のほうは、タイトルがもう、わたしのハートを射抜くのだ。解説を書いている中島義道が

「これほど自分の実感に合った書に出会うのも久しぶりである。」

と言っているが、その通り!って感じだね。

2月25日(土)

大塚麻美展最終日。大塚さんは水戸から毎日通い、ギャラリーにずっと詰めていたので、かなり疲れてしまったのではないだろうか。

今日は大塚さんの搬出と小出恵理奈さんの搬入。私はたいしたことはしないのだが、それでも搬出・搬入と続くと疲れてしまうのだ。気合を入れないとなあ…

「本格的」という言葉がある。

「本格的なカレー」とかいう言葉を使ってインスタントのカレールーが売られていたりするが、そもそも本格的だったらインスタントではないはずである。インスタントの中では本格的ということなのかも知れない。

「本格的ピッチャー」というのはどういう選手のことだろうか。球速のあるストレートを中心に攻めてくるということ?だとしたら、変化球中心の投手は本格的とは呼ばれないのだろうか。

本格的な俳優とか、本格的な歌手とか言うこともあるが、本格的でないというのは「下手」ということになるわけで、かなり失礼ではあるな。

「本格的」と「本格的でない」という区分けは極めて恣意的なわけで、そんな分け方はおかしいのである。

えっと、これが建前です。

そうなんだけど、やっぱり本格的というのは存在するのではないかとわたしは本音では思うのである。

何をもって本格的かというのは簡単ではないのだが、美術でいうと、「可愛いキャラクター系」作品は、どう見ても本格的ではないと思うのである。

来週の小出恵理奈の作品は「本格的」である。

どこがどう本格的なのかは、来週作品を見ながら紹介していきたいと思う。

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2017年2月21日 (火)

ゲゲゲの画鋲

小学生の行動は予測不能で、なにをするかわかったものではない。

なんでそんなことやるの?っていうことを平気でやるのである。

わたしも小学生のころは、変なことをやっていた。

放課後は、学校のそばのどぶ川で蛭を捕まえて遊んだりしていた。裸足で汚い川に入り、蛭に血を吸わせて取り押さえたあと、土をまぶして転がす。粘土で紐を作る要領でころころと回して延ばす。ときどき引っ張りながら念入りに転がして、蛭が紐のように長くなると

「ゴム!」

などと叫んで喜んでいた。

山形市立第六小学校のときの話である。

蛭は放課後の話であるが、学校の中でも変なことはやっていた。

給食のあとは昼休みで、グランドに出てみんなでドッヂボールをした。男の子たちはみんなドッヂボールである。それ以外の選択肢はない。そのころは、とにかくドッヂボールが面白くて夢中になっていたのである。昼休みってどれくらいあったのだろうか。20分か30分あったような気がする。

午前中は授業が4時間あって、2時間目と3時間目のあいだに、短い休憩時間があった。「中間休み(チュウカンヤスミ)」と呼んでいたな。それはたぶん15分か20分だったと思うのだが、その短い休み時間にもわたしたちは走って校庭に出てドッヂボールをした。実質10分程度の試合でも小学生のわれわれにはけっこう充実した遊びだったのだ。大人にとってはあっという間に過ぎ去っていく時間が、小学生にはけっこう長く感じられるものである。年代によって時間の流れ方は違う。これはアインシュタインでないと説明ができないのではないか。とにかく、昼休みと中間休みはドッヂボールに明け暮れたわけだが、あるときから、わたしはドッヂボールをやらなくなった。

なぜかというと、ドッヂボールよりも面白いことを見つけてしまったからである。わたし一人ではなく、数人の仲間もいた。それは「画鋲拾い」という遊びである。

校内に落ちている画鋲を捜して拾って歩くというものである。小学生って変である。

これは、校内美化のために働くという奉仕の精神から発展したものではない。純粋に、画鋲を捜す楽しさを享受するための行為なのである。

画鋲を拾うことは楽しいのか?

楽しいのである。小学生にとってはかなり楽しいのである。

画鋲以外のものは拾わない。ごみが落ちていても拾わない。画鋲以外は無視である。釘が落ちていた場合は拾う。たぶん金属は拾うという基本方針があったのだと思う。

ひょっとしたら、金属は売れるという噂かなんかがあり、それを目指してがんばっていたのかもしれない。そのへんはよく覚えていない。

われわれ画鋲少年団は、小さな缶を用意した。直径20センチはあるわりと大きなお菓子かなんかが入っていたものだったかな。小学生は目標があると、どんな手を使ってでも欲しいものは手に入れるのである。

それにしても、学校の中に落ちている画鋲を拾うっていうけど、画鋲ってそんなに落ちているものだろうか?それは今でも不思議なことではあるのだが、半年ぐらいで缶は一杯になったのであった。

山形六小の廊下の造りが今のたてものとはちょっと違っていて、廊下の板は、差込み組み立て式で、10cm×50cmくらいの板を敷き詰めるという方法で作られていた。板同士にはちょっとした隙間が出来ていて、その溝にいろんなゴミといっしょに画鋲が埋もれているのである。わたしたちは、釘のようなものをもって溝をほじくり返していくわけである。

古い学校だったので、その溝には何年分か何十年分かの落ちた画鋲が埋もれていたのではないだろうか。発掘調査である。調査は丹念にゆっくり行なわれる。調査団は少しずつ廊下を進んでいく。みんなで歩調を合わせるために、歌を歌いながら進んだ。その歌というのは「ゲゲゲの鬼太郎」のテーマソングである。

われわれは、中腰で床を注視しながら

「ゲッ、ゲッ、ゲッゲゲのゲエ~」

と唱えながら、見つけた画鋲を缶の中にカランと落としていたのである。

楽しかったのか。たぶん楽しかったのだろうが、何とはなしの義務感のようなものも加わっていたかもしれない。そして溜まった画鋲を見てニヤニヤ満足笑いをうかべていたのだった。

しかし、気まぐれな小学生の興味は長続きしない。

いつか画鋲少年団は自然解散して、またドッヂボールにいそしんでいるのであった。

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2017年2月20日 (月)

大塚麻美の豪奢

大塚は、学生のころから、線香で紙に穴をあけて作品を作っているが、線香を使うことは、大塚作品の「代名詞」というわけではない。線香を使っているが、線香にこだわっているわけではない。

彼女のモチーフは「山」であって、自分にとっての「山」を捉えることで、なにか人生というか、生き方を考えているようなのである。

「山を呼んでみる」 3部作

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少しずつ近づいてみる。

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寄るとこうなる。

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さらにアップ。

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線香で焼いた穴が美しい。

山という題材を扱うのに、線香を使う必然性はない。モチーフと技法がなにか一環していないのではないかという方もいるかも知れない。

しかしそこが大塚作品の真骨頂なのである。

作品は必然性でもって出来上がるわけではない。

人生と同じく、偶然と賭けで織り成される「破綻」こそが、はらはらどきどきの美しさを生むのである。

離れて作品を見ると、言われなければ、線香の穴は穴ではなく、「模様」のように見える。しかし、線香の穴は、遠くからでも念力を送ってきて、われわれのハートをレーザーのように射抜くのである。

作品に接近してみると、その秘密が明らかになるだろう。大塚は、線香を使って穴を開けたりアクリルで描いたりするだけではなく、色鉛筆を使ったり、スタンプを使ったり、様々な技法で、彼女の念を閉じ込めるのである。

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豪奢な画面である。

飽きない作品である。

「ドローイング」 紙にアクリル 30×40cm 2017 ¥45,000(額込み)

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「山のたわむれ」 紙にアクリル 22.7×15.8cm 2017 ¥23,000(額込み)

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2017年2月16日 (木)

プロになる

来週のステップスギャラリーは大塚麻美展ですが、そのなかで、わたしがトーク(レクチャーかな)をやりますのでお知らせします。

大塚麻美展

2月20日(月)-25日(土)

トーク 「プロになる」

2月23日(木) 18:00-19:00

Steps Gallery

入場無料・予約不要

内容

1.「プロ」の定義

  プロとはなにか?

2.作品の評価

  評価の観点

  誰が評価するのか

  誰に評価されたいのか

3.ギャラリーとはなにか

  美術館とギャラリーはどこが違うのか

4.個展とはなにか

  誰に見てもらうのか

5.美術を勉強する

  勉強の二つの方法

6.サマセット・モーム 『月と六ペンス』

  ゴーギャンの場合

このレクチャーは美大生や若手作家に向けたものですが、一般の方や、すでに活躍している作家さんにも、案外面白いかもしれません。興味があったら参加してみてください。

ひょっとしたら立ち見になる場合もあるかもしれません(ないと思うけど)が、1時間足らずですので、その際はご容赦ください。

東北芸術工科大学が、卒業生を応援するプログラムとして「アートウォーク2017」を企画し、銀座界隈の13画廊を会場としてそれぞれ個展を開催します。ステップスの大塚麻美展もその中の一つになるわけです。

大塚さんは昨年も同じ企画で個展をやりました。各画廊は毎年、それぞれ卒業生のなかから作家を選んで展覧会をするのですが、ステップスは2年連続で大塚さんを指名しました。なぜかというと、これから伸びる作家だと踏んだからです。

作品は来週紹介しますので、ご期待ください。

参加しているギャラリーをおしらせします。各会場を順に回っていくとそれぞれのギャラリーと選んだ作家の特徴がわかり、「ほう…」などと言いながら見ていくのも楽しいかもしれません。

ギャラリーツープラス

ギャラリー檜

アートスペース羅針盤

ぎゃらりぃ朋

藍画廊

GALERIE SOL

ギャラリーQ

K's Gallery

Steps Gallery

REIJINSHA GALLERY

ギャルリー志門

ギャルリ・プス

十一月画廊

そういえば、昨年の今頃、わたしは風邪だかインフルエンザかわからないが、とても具合が悪くてギャラリーで死んでいたのですが、今週のわたしもかなり調子が悪いのです。熱もそんなにないし、鼻水、くしゃみ、頭痛、なにもないから、これは風邪でもインフルエンザでもなく、ベーチェット病の「発作」のようです。

なんとかこれを乗り切らないと、来週寝込むことになったら大変なので、これは気合でなんとかしないといけないな。

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2017年2月14日 (火)

マックのテーブルを拭く

今朝も、稲毛駅前のパン屋さんサンジェルマンでコーヒーを飲んできた。小さなパンを一つとホットコーヒーを一杯。トレイに載せたパンをレジまで持っていき、「コーヒーで」と言って支払いをして、別のカウンターでコーヒーを受け取り、席に着く。朝の10時前だと290円のコーヒーが190円である。それを目当てに早めに来る客もいる。

こういう店はすべてセルフサービスである。食べ終わったら、食器や紙くずなどは、自分で片づけるのである。ドトールもそうだし、マクドナルドも同じである。

本当は、セルフサービスではなく、「いらっしゃいませ」と言って注文をとり、コーヒーを運んできてくれる喫茶店のほうがいいのだが、そういう店は少なくなってしまった。

サンジェルマンでは、わたしの片づけも慣れたもので手早い。パンを入れた篭に砂糖の紙袋と、コーヒーをかき混ぜる木の棒と紙ナプキンとプラスチックのミルク容器と他にいらなくなった紙くずをカバンから出してその上に載せる。かたづけ用の台があり、まず漏斗状になった穴に煙草の吸殻を捨てて、灰皿を置く。次に紙くず軍団をゴミ箱に入れて、篭を置く。その次には、飲み残しのコーヒーを吸殻とは別の漏斗に流し込んで、紙コップを捨てる、という要領である。

マクドナルドも同じである。ドトールは少し違う。

ドトールは、頼んだものを自分で運ぶところは同じだが、かたづけが違う。トレイをそのままかたづけカウンターに置くだけでいいのだ。細かい仕分けやごみ捨ては店員さんがやってくれるのである。親切である。

ドトールは、なぜこういうシステムなのか分からないのだが、ひょっとしたら、店員が片づけたほうが面倒でないのかも知れない。

日本のお店は、こういうセルフサービスの店でも定期的に店員がテーブルを拭いたりしてくれて、清潔できれいである。マクドナルドなども、客が散らかして帰っても店員さんがさっと片づけてくれて、気分がいいのであるが、これがニューヨークのマックなんかだと勝手が違ってくる。そもそもうらぶれた感じがして雰囲気が暗いのである。客は黒人が多いし、しかも陽気でなくて、むっつりしているのである。そうよ、おれたちはマクドナルドで食う金しか持ってないんだよという顔で、なんか不機嫌なのである。店員だって同じでなんか不機嫌である。あたしたちはね、安い時給でこんなつまらない仕事をしてさ、ああ、面倒くさい、早く注文言いなよ、という感じなのである。ぶっきらぼうである。なんか意気消沈してしまう。

セルフサービスだからみんな自分で片づけるわけだが、それでもテーブルの上はなんか汚い。ハンバーガーの包み紙がそのままだったり、こぼしたコーヒーやソースなどがこびりついたりしている。日本人のわたしは、こういうのを見ると片づけたくなるのである。

そして片づけたのである。ごみを捨てて、テーブルを拭いた。すっきり!気分がいいぜ。ざまあみろ。なんなら店内全部をきれいにしたい。

まあ、こんな感じでニューヨークのマックはたそがれた感にあふれているのだが、これが、慣れてくると、それはそれである種の風情のようなものがあって悪くないのである。

ぶっきらぼうな店員も見ていると面白い。

日本のマックにはメニューに「スマイル¥0」とか書いてあったりして、本当にみんなにこにこして接客するのだが、ニューヨークではそんなことは通用しない。なんでそんなに愛想振りまかなくちゃなんねえんだよと店員から不平の言葉が出てくるだろう。もし、ニューヨークのマックのメニューに「スマイル」があったら「$3,00」くらいだろうな。

こういううらぶれた感じというのは慣れてくると、けっこう居心地がよいのである。店員がスマイルを送ってこないから、こっちだって不機嫌な顔しててもいいし、気楽なのである。

団鬼六が同じようなことを書いている。『お~い、丼(どん)』(ちくま文庫)のなかで、吉野家について書いてある箇所である。昔は高級ホテルのバーでオールドパーのストレートを飲みながら、バーテンと話したり、紹介された外国人の客と英語で話して、面白くもないのに笑ったりしていたのだが、そういう気障な生活が嫌になってしまったのである。そして、桜木町の吉野家で誰にも気兼ねなく過ごすのが好きになってしまったようなのである。牛皿とおしんこを箸でつまみながら、酒をちびりちびりと舐めるのである。吉野家ではお酒は一人3本まで、夜の12時を過ぎたら酒の提供はしないという決まりがあるのだが、飲んべえにはそれがいいというのである。あきらめがつく。

セルフサービスについて書くつもりだったが、わき道にそれた。

稲毛のサンジェルマンに話を戻す。ここでは、あと片づけは客がやるのであるが、ときどき店員さんが、テーブルに注文の品を運んできたり、お片づけコーナーでゴミ袋を新しいものに換えたりしているときがあるのだが、そういうときに片づけをしようとしていると、店員さんが「あ、そのままでいいです」とか「お預かりします」とか言って、片づけてくれるのである。

こういうとき、店員さんはとても良い人に思えるし、ときには美人に見えたりもするから、そこのところはドトールでは味わえないのである。

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2017年2月11日 (土)

紐のエントロピー

淹れ立てのコーヒーが入ったカップがある。これをテーブルの上に載せて放っておくと、コーヒーは冷めていく。これは、コーヒーのもっている熱が、周りの空気に奪い取られていくからなのである。熱は拡散する。

逆はない。すなわち、冷めたコーヒーが、自然に周囲の空気の熱を奪って熱くなるという現象はない。

原理的には、そういうことが起こらないとは言えないが、実際にはない。なぜかというと、そこにはエントロピーが働いているからだそうである。

エントロピーってなによ?ということになるわけだが、わたしが今読んでいる『量子革命』の用語集によると、エントロピーは系の無秩序さを示す。エントロピーが大きいほど、系は無秩序である。自然界には、孤立系のエントロピーを減少させるような物理プロセスはない。ということになるのだが、よく分からない。

まあ、秩序だったものは放っておくと無秩序に向かう。その逆はないのだな。

で、わたしははっと気がついてしまったのである。

わたしが長年疑問に思っていた紐が絡まるという現象について、大きなヒントがエントロピーにあるのではないか!?

携帯電話の充電器のコード(紐)が絡まるのである。わたしはスマホではなくまだちゃんとガラケーを使っているのであるが、充電器を必ずカバンに入れてギャラリーに行く。そうするとですね、素直に真っすぐ伸びていた紐(コード)が、ギャラリーに着いてカバンを開けるとめちゃくちゃに絡まっているのである。コードはそれほど長くはない。今測ってみたら、150cmほどである。これが、ぐちゃぐちゃになる、というよりも、ちゃんと結ばれてしまっていたりするのである。カバンの中に一寸法師がいて、せっせと結んでいるとしか考えられないのだ。わたしはずうっと不思議でならなかった。物理学ではこういう現象を解明してくれないのだろうかと思っていた。

しかし、わたしは『量子革命』でエントロピーのことを学び、ははあ、これだな、とピンときたわけなのである。

カバンという閉じられた系の中では、紐は秩序から無秩序に向かう。すなわちこんがらがっていなくてわかりやすい形状から、紐はこんがらがった無秩序に向かうのである。

紐の無秩序は、今のところエントロピーで解明できたということが出来るのではないだろうか。自信はないけど。

これとは逆に、こんがらがった紐をカバンに入れて歩くと、紐が自然にほどけていくという現象を確認したことは一回もないので、エントロピーは減少しないという原則にぴったり合っていると思うのである。

どうだべ?

靴の紐はこれもまたよくわからない。きちっと結んだ靴紐は歩くに従って自然にほどけていく。その逆はない。歩けば歩くほど靴紐が締まっていくという経験をしたことはない。靴紐が自然にほどけていくのは面倒くさいものであるが、次第に締まっていくよりはよいのかもしれない。自然に締まって行ったら、みんな足に紐の痕が残って、いやあ、今日の紐は締まりがきつかったねえ、とか言っているかもしれない。これもエントロピーの増大というのだろうか。

浴衣の帯はどうなのだろうか。きちっと結んだ帯は、温泉宿に一泊した朝には、どんどん緩んで、腰から胸のあたりまでずり上がり、帯の用を足さなくなっている。これは靴紐と同じだな。浴衣の帯は、だらしなくなっていくわけで、これは無秩序に向かっているなあ、と実感するわけで、エントロピーの増大であるとはっきり言ってもいいだろう。

有名な物理学者の友達がいたら、そこのところを詳しく訊いてみたいものである。

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2017年2月 7日 (火)

寺崎誠三の初孫写真

明日からの寺崎誠三写真展のタイトルは「ichica」。誠三さんの初孫である。

初孫をモデルにして個展を開くという、そのことだけで、どれだけの爺バカであるかということを察することができる。

本人は

「撮影するときは冷静に、被写体としか思ってないよ」

と言うのであるが、「お爺ちゃん」と「カメラマン」の間で揺れ動きながら、その絶妙なバランスの上に立ってシャッターを押す姿を想像しながら見るのが、今回の展覧会の楽しい見方になるかもしれない。

小品の展示は、誠三さんが自分でやった。

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「ichica 14」 20×29cm ¥28,000(額込み)

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「ichica 5」 41×59cm ¥100,000(額別)

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「ichica 2」 41×59cm ¥100,000(額別)

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「ichica 12」 20×29cm ¥28,000(額込み)

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搬入は昨日の月曜日に行なった。

ギャラリーの搬入は、いつもは土曜日に行なうのだが、今回の展示は水曜日スタートで余裕があったので、月曜日にしたのだ。土曜日は搬出があって、それもけっこう疲れてしまうのだが、そのあと続けて搬入をやるのは正直いってしんどいのである。

やっぱり年を取ったなあと思う。以前は17:00から搬出をして、18:00過ぎに終えて、その後次の展示の飾りつけをする。時間のかかるときは22:00とか23:00とかになったりしていたのだが、まあ、なんとかやっていた。しかし、今はつらい。

今回は日曜日に一日休んで、月曜搬入。今日火曜日は、先週売れた作品の梱包と発送、その他雑用をやっていたら、結局一日かかってしまった。

疲れたときは果物を食べるのがいいな。わたしはいつも冷蔵庫にグレープフルーツを入れておいて、疲れたときはそれをカットして果汁を吸っている。

そういえば、以前見たテレビ番組に、果物しか食べていないという日本人の男の人が出ていたな。

あるとき、果物だけで生きていけるだろうか、という「実験」を自分で行い、それが何ヶ月も続いて、上手くいったのでそのまま何年も経ってしまったようなのである。

果物だけを食べて生きていくってどうなのかなあ…と思ったが、ちょっとだけうらやましいような気もしたのだ。

この人は、ご飯とか味噌汁とか、刺身とか肉とか食べたくならないのだろうか。果物以外は食べたくないと言うわけではなく、続けていたら「記録」が気になってしまい、止められなくなってしまったようだ。

健康に問題はないようである。果物といっても、バナナとかアボカドとか食べればエネルギーや脂質をとることができる。ナッツも果物と考えているので、アーモンドとかピーナッツとか食べればビタミンも補給できる。栗なんかも縄文時代は、主食の一つになっていたくらいだから、有効であるだろう。

水も飲まないそうだ。水分もすべて果物から摂っている。夏は西瓜だろううなあ。冬はなにかなあ。柑橘類がいいだろうな。グレープフルーツだな。

果物以外は何にも口に入れないのかというと、塩だけは果物から摂れないので例外にしている。でも塩をそのまま舐めるのではなく、西瓜の皮なんかを塩で漬けて、漬物として食べているそうである。

果物だけ食べているというが、具体的にどんな果物を食べているのだろう。マンゴーとかメロンとか巨峰とか、そんなものばかりだったら、かなり高くつくよね。いや、どんな果物でも、安くはないので、食費が大変なのではないだろうか。

さて、わたしは、グレープフルーツを切ろうかな。











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2017年2月 4日 (土)

誠三展は8日(水)から

来週のSteps Galleryは8日(水)からスタートになります。

6日(月)と7日(火)は休廊になりますので、ご注意ください。

寺崎誠三 写真展

2月8日(水)-18日(土) 日曜休廊

12:00-19:00(最終日17:00)

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初孫のいちかちゃんを撮った作品です。

パーティーは特に予定しておりませんが、本人が居るときは、「軽く飲む」ということがあるかもしれません。

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2017年2月 2日 (木)

小さなギャラリー

1月31日(火)

パフォーマンスの公演「NIPAF」が今開催されているが、その参加アーティストたちを引き連れて、霜田誠二がやってきた。

いろんな国からやってきたパフォーマンスアーティストだ。10人くらいだろうか。

そこに、今展示している作家のマリヤーナさんが、セルビア大使館のイェレナさんとやってきたので、ステップスは国際交流の場と化した。

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わたしはお茶とコーヒーを人数分淹れたりして大忙しになった。人数が多いので事務所のスペースに全員が入ることができなかったのだが、みんなめちゃくちゃ元気なので、バルコニーで寒風に吹かれながら、マリヤーナがもってきてくれた饅頭を頬張りながら盛り上がっていた。

霜田誠二はこういう連中を集めて、何十年も企画を続けているのだった。真似はできない。

海外のアーティストと付き合って、展覧会を開くのは、本当に疲れてしまうのだが、それは、やったらやったで日本人とは違うタイプのエネルギーをもらうことができるので、またやろうかなあ…とか思ってしまうのである。

霜田誠二が連れてくるアジアのアーティストたちは、ステップスを見ると、とても驚く。

「わー、小さい」

というのが彼らの第一声である。

ステップスギャラリーは日本のギャラリーでも小さいほうなのであるが、アジアのアーティストから見ると「とても小さい」のである。

たとえばバングラデシュなんかでは、ギャラリーといえば、みんなとても大きくて、貧乏アーティストたちには敷居が高い感じなのである。ギャラリーを経営しているのは「お金持ち」なわけで、小さなギャラリーなんて全くなくて、ギャラリーといえば、大きなものであるという感覚しかなくて、小さなギャラリーというイメージはないのである。

で、ステップスを見ると

「なあんだ、ギャラリーはこれでいいんだ」

と安心するようなのである。

「おれも、ギャラリーやってみようかなあ」

とか思うらしいのである。アジアに小さなギャラリーがたくさん出来る日が来るかも知れない。

パフォーマンスの公演は運営がとても大変である。とにかくお金がない中でやっているので、海外から来るアーティストたちも浅草のカプセルホテルに泊まって、立ち食い蕎麦を食べながらパフォーマンスをやり、吉野家で牛丼を食べて移動するという感じなのだが、それでもみんなとても楽しそうなのだ。

アートはさ、やっぱり情熱だよね。

表現しないではいられないという切羽詰った欲求がある。

ヘンリー・ミラーの文章を少しだけ紹介したい。ちょっと難しいかもしれないが、ミラーが小説を書こうと決心する件なので、そういう文章だと思って読むと分かるかも。

『南回帰線』から

「すべての出来事は、それが何らかの意味を持つとき、矛盾の形をとって現われる。今この物語を捧げている女性の現われるまで、ぼくはいわゆる人生においては、すべての問題の解決はどこか外部にあると考えていた。その女性にめぐり合ったとき、僕は今こそ人生をわが手に握り、咬みつきかぶりつけるものを摑んだように思った。だがその実、ぼくは人生を完全に取り落としてしまった。すがりつくものを求め手を伸ばしたのだが―何も見いだせなかった。しかし、何かを摑まえすがろうと(時世に置き忘れられるのもいとわず)けんめいに手を伸ばすうち、ぼくはそれまで求めていなかったものを―ぼく自身を―見いだした。ぼくが生涯を通じて求めていたのは、(他の人間たちのやっているのが生きることなら)生きることではなく、おのれを表現することにあったのに気づいた。考えてみれば、ぼくはこれまで生きることに関心を抱いたことはなく、ぼくの関心はただ現在の行動に、人生にも匹敵し、人生の一部であると同時に人生を超越しているものにしかないことを悟ったのだ。真実も現実も、ほとんどぼくの興味を惹かない。ぼくの興味の対象は、ただ想像の描き出したもの、生きんがため日ごと抑えてきたものだけなのだ。きょう死のうが明日死のうが、そんなことはこれまでも現在も、ぼくにとっては何ら重要な意味を持たなかった。だが、何年も努力をつづけてきたあげく、今日にいたるもまだ自分の考え、自分の感じを表明できないこと―それがぼくを悩ませ、ぼくの心に食いこむ。幼い時分から、ぼくは何の楽しみも持たず、ひたすらこの本能、この能力のみを願い、この亡霊を求めつづけてきた。その他のすべては―この努力に関与せぬぼくの一切の行動は―嘘なのだ。ぼくの人生の大半を占めているのは、それなのだ。」

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