2016年8月30日 (火)

もの派

わたしが大学に入った当初は、美術に関してまだ何も知らないので、写真の画像に興味があったから、なんでもない写真をそのまま写して作品にしようかなあなどと考えていた時期であった。

それがいきなりミニマルアートに出会ってしまい、これをどう解釈したらいいか皆目見当もつかないでいたのだ。ミニマルアートを咀嚼し、消化するのにへとへとになってしまったのだ。

そして、やがてギャラリー廻りをするようになって出会ったのが「もの派」であった。わたしが大学に居たころは1970年代後半であり、もの派全盛、というか、神田、銀座のギャラリーはもの派(あるいはもの派もどき)のインスタレーションであふれかえっていて、作品とはもの派のことであるみたいな雰囲気があった。

いまどきなんで具象画なんて描いてるの?

団体展に出すの?ダサ~い!

と言われる時代であった。

そして、わたしはそういう雰囲気にすぐさま飲み込まれていったのだ。

そのころ、もの派はとにかくかっこよかったのである。

やがてわたしは、かねこ・あーとギャラリーで個展をやり、神田のときわ画廊でも発表もし、真木画廊、田村画廊周辺を徘徊して、同郷の山岸信郎氏と知り合い、さらにもの派の作家たちを身近に感じるようになっていった。

リー・ウーファン(わたしのパソコンでは漢字に変換できないのが悔しい)とか菅木志雄に憬れていた。

菅さんはかねこ・あーとでも発表していたので、作品のアドバイスをしてもらったりしたこともある。

もの派の「もの」というのは、その言葉通り、石や木や紙やガラスや金属、なんでも、加工していないものそのものを指しているのだが、ものそのものをそのまま提示するのである。

まあ、もの「そのまま」といっても、本当にそのままかというと、「そのままに見える」ように細部まで神経を集中して計算をしていることは言うまでもないのだが…

とにかく、普通のイメージをもった作品ではないことはたしかである。

山岸さんがあるとき菅さんの作品を評して、一言でこう言ったことがある。

「菅の作品には中心がないんだよ」

中心がないというのは、絵画性がないということなのであろう。構図も構成もなく、モチーフもないのであるということを言いえて妙である。

もの派の作家たちはその辺を慎重に考えていたのだろうなあ。

リー・ウーファンが興味深いことを言っている。

1989年に埼玉県立近代美術館で開催された展覧会「アート エキサイティング’89 現在を超えて」の展覧会カタログのなかで、こんな短いコメントを書いている。「困ったこと」というタイトルだ。

「額ぶちのなかにどんどん眼が吸い込まれるような絵は、もはや現代のものではない。そこに絵があるからして、あたりのものが生き生きしてみえるような絵こそが望ましい時代である。それなのに私の絵には、いまだ未練がましいところがあり、それが見る人をうっとうしくする。」

かなり正直な所見である。「眼が吸い込まれるような絵」にいまだ未練が残るのである。

それは逆に言うと、リーに限らずもの派の作家たちが、いかにストイックに制作に取り組んでいたかがわかるのである。

もの派が提示する「ものそのもの」は、ダリの言う「現実をそのまま」と同義である。

美術の「派」はどこかでみんなつながっているのかも知れないね。

次回は「キュビスム」についてちょっと書く。

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2016年8月29日 (月)

シュールレアリスム

高校に入学した年に美術部にも入って、油絵を描くぞ!と意気込んでいたときに、サルバドール・ダリに出会った。山形市の繁華街、七日町の小さな本屋でダリの画集を見つけたのだ。

今考えると不思議なことだが、本当に小さな本屋さんでも昔は美術全集とか置いてあったのである。

当時その画集は1000円くらいだったんじゃないかなあと思う。40年以上前だから、今だと3000円くらいになるなのではないかな。当時の高校生にとって1000円はけっこうな金額で、気軽に出せるお金ではない。親に頼んだか、小遣いをやりくりしたかして、わたしはダリの画集を手に入れたのだった。嬉しくてうれしくて、何度もページをひっくり返しながらダリの絵を見続けた。その超絶テクニックと、シュールレアリスムと呼ばれる世界に酔った。そしてわたしは決心したのだ。おれは絵描きになる。

「わだばダリになる」

てなもんである。

わたしが今美術の世界に身をおいているのはダリのおかげなのである。

シュールレアリスムというと、この世のものではない不思議な夢のような世界を描いた作品を思い浮かべるわけだが、現代では、何を今さらシュールなの?という人もいるだろうし、ああ、昔流行ったねえなどという人もいるかもしれない。しかしシュールという言葉は、誰でも知っていて小学生でさえ、シュールじゃんなどと使ったりする。それは、シュールレアリスムが、一般社会の中に深く浸透してしまい、ことさら話題にしなくてもいいほど普通の言葉になってしまったことを意味している。定着してしまったのである。

さて、シュールレアリスムとはなにか、ということをもう一度考えてみる。

超現実主義と日本語では言うわけだが、この「超」とはなにかという問題である。それは現実離れしているということではない。現実とぴったり隣り合わせでありながらほとんど現実そのものでありながら、紙一重のところであちらの世界に行ってしまっていることである。

ダリの画集には、ダリ語録のようなものも載せられてあって、そのなかで、ダリは重要な発言をしている。

パン篭に入っているパンを描いた絵について彼はこんなことを言っているのである。

「現実をそのまま、丹念に描く。それがシュールレアリスムである。」

パン篭の絵は、なんの変哲もない普通のパン篭とパンを、そのまま描いているだけである。しかしそのパンは実際に食べることができそうなくらいにリアルなのである。

それをダリはシュールであるといっているのだ。

これはどういうことかというと、現実そのものは、よく見ると、そのままで驚くべき存在なのである、ということを現わしているのである。

われわれが普通に暮しているこの日常世界も、宇宙と同じように不思議に充ちていて、われわれを驚かさないではおかないのではないか。とダリは言っているのである。

シュールレアリスムというのは、世界をどう描くかではなく、世界をどう捉えるかということなのではないのか。存在は存在するというそのことだけで神秘的である。

ダリはそういうことを言っているのである。

現実そのものはそのままで驚愕に値するという考えは、日本の「もの派」に通じる考え方なのではないか、ということについては次回書きたいと思う。

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2016年8月26日 (金)

学校の玄関

8月25日(木)

ギャラリーを閉めた後、東京都立城東特別支援学校に行く。今日は、学校に展示をしてもらう作品の搬入なのである。菅沼緑さんの作品とわたしの作品を展示してもらうことになっているのである。これは常設なので、半永久的に展示される。

「城東」は4月に開校したのだが、校舎はまだ完成していなかった。今月ようやく完成ということだったので、早速作品を届けに行き、展示作業も行った。

「城東」は、都営新宿線の大島(オオジマ)駅から歩いて5分。元の都立江東ろう学校の敷地に建てられた。

大島は懐かしい。わたしが大学を卒業して教員になって,最初に赴任したのが砂町中学校で、「砂中」は大島駅から「城東」と反対側に歩いて10分のところにあるのだ。

大島駅周辺もずいぶん変わってしまっていたが、中華料理の「竹園」を見つけて嬉しかった。わたしが教員になったころは、週休2日制が始まったころなのだが、月に土曜日は2日休みで後の2日は出勤だった。生徒も同じで、隔週の土曜日休みだったわけである。月2回の出勤は、その分をまとめて夏休みにとっていた。そんなときもあったのである。土曜日は半ドンなので午前中で終わるわけだが、先生たちはすぐには帰らないで、というかお腹が空いているわけだから、ランチをしてから帰る。みんなでよく行ったのが「竹園」なのであった。もう30数年前のことだから、ずいぶん昔だが、まだがんばっているのが嬉しかった。

20:00に学校に到着して、すぐに作業を始めて、21:30には作業終了。自分でも驚くほどてきぱきと動いた。

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校舎は出来たばかりなのできれいである。これは玄関を入ったところ。左端に下駄箱が見える。斜めになった3面の壁がおしゃれである。一番手前が校訓の書かれた書。真ん中が吉岡の作品。いちばん奥が菅沼緑さんの作品である。

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校訓の額もわたしが展示した。壁が木ではなく石膏ボードなので、釘は使えないし、重い作品は展示が難しいのだが、かなり重量のある「校訓」をなんとかがんばって掛けることができた。われながら上手にできたと思う。特殊なフックを作って対処した。どうやって掛けたのかは企業秘密である。

これは緑さんの作品

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シルエット・シリーズをわたしがアレンジした。

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「城東」は小学部と中学部の生徒が通う学校なので、緑さんの作品はぴったりである。

これは吉岡の作品。

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タイトルは「秘密の記憶」だったのだが、学校用にタイトルを「秘密の記憶-泉」とした。

もしも、ひょんなことで城東特別支援学校を訪れるような機会があったら、忘れないで見てくださいね。

☆展覧会

「木嶋正吾展」

9/1(木)-13(火) 水曜休廊

11:00-18:00

コート・ギャラリー(国立市中1-8-32)国立駅の南口

パーティー 9/10(土)16:00~

「まなざしの系譜」

9/16(金)-28(水) 月曜、木曜休廊

11:00-18:00

レセプション 9/17(土)16:30~

ギャラリー睦(千葉市中央区弁天3-8-11)

出品作家

宇野和幸/木嶋正吾/北島麻里子/栗田ふみか/近藤昌美/清水美三子/高柳麻美子/長谷川一郎

☆読んでいる本

小森陽一 『漱石を読みなおす』(岩波現代文庫)

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漱石にしてもゴッホにしても、やっぱり昔の大家はすごいなあ…と思う。

 

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2016年8月22日 (月)

今日から神田毎実展

台風が通過中であるが、神田毎実(カンダツネミ)展は予定通りにスタート。すっきりしたギャラリーと、ごちゃごちゃしたオフィス側との対比が面白いかもしれない。

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検討の末、照明は点けないで、差し込んでくる外光だけで視てもらうことにする。

壁に取り付けられている作品は、上部が青、下部が赤で塗られている。

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作品は眼の高さに合うようになっているが、身長の高い人と、低い人が居るので、「青」が見えないという人もいるかと思う。ただ、この作品のテーマは「それぞれの視線」ということなので、立ち位置や角度で、見えるものが違ってくるということが分かってもらえばよいのである。みんな同じものを見ているようで、実は視界というものは、それぞれにかなり違ったものを捉えているので、それぞれに違った世界に居るのであるということが分かってもらえばよいのだが、まあ、難しいことは抜きにして、作品の静かな世界を楽しんでもらえばよいと思う。

オフィスの小品はたくさんあって、よく見ると笑ってしまうものも多いので、ゆっくり見ていただけたらと思う。

「電気掃除機 2016-02」 刷毛箒、電気コード ¥15,000

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「KATACHI 2016-11」 漏斗、スプレー缶、風船、蛇口 ¥50,000

これは8×4のスプレー缶から気体が噴出すると風船が膨らむというもの。本当に膨らむのかどうかは謎である…

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「頭熱発電 02」 ヘルメット、電球 ¥45,000

これを被って思考を巡らすとその熱で電球が灯る(はず)というものである。

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「孤高のペンギン」 フライパン、ペンギン ¥25,000

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フライパンの蓋を開けるとペンギンが居る…

こんな作品が50もあるので、飽きないと思うよ。

本を2冊買った。

柴崎聰・編 『石原吉郎セレクション』(岩波現代文庫)

木下長宏 『ゴッホ〈自画像〉紀行』(中公新書)

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どちらも、がっちりとした読み応えがあるので楽しい。ゴッホの自画像が全点載っているので興味深い。







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2016年8月20日 (土)

始業式のピーク

わたしの夏休みは今日で終わりである。学校はまだ夏休みなわけだけど、山形の学校はもう始業式をやっている。

ちょこっとだけ山形に帰ったのだが、テレビを見ていたら、ニュースで始業式についてアナウンサーがこんなふうに言っていたので驚いた。

「18日が始業式のピークです」

始業式のピークって何?と思っていたら、山形では地区によって、始業式の日取りはまちまちらしく、早いところでは17日に学校が始まっている。遅いところでも23日とか24日には新学期が始まってしまうようである。

そういえば、わたしが小学校、中学校に通っていたときも、夏休みは8月の25日には終わっていた。

「東京だど、9月1日がら2学期が始まるんだど。いいねえ」

「うそ!?うらやましいべしたぁ」

などという会話も交わされていたのだった。

夏休みがこんなに早く終わってしまうのは悲しい。

今回の夏休みでは、3日間まったく仕事も予定もないという時があった。3日間のフリーとなれば、普通の人は、旅行に行ったり、釣りをしたり、スポーツに励んだり、映画を見たり…と好きなことをして過ごすものだろう。趣味というものである。一方わたしはといえば、この3日間何をしたかというと、喫茶店に行き、マッサージに通い、本屋さんをぶらぶらする、というゴールデントライアングルを行き来していただけなのである。今さらではあるが、わたしには趣味というものがないのだった。

昔からそうだった。小学校のころは、なにか趣味を持たなければならないという強迫観念に囚われて、切手集めなどを始めたりしたのだが、すぐに投げ出してしまった。

アラーキーがどこかでこんなことを書いていた。

「おれは趣味がないんだよ。写真を撮るのが唯一の趣味だったんだけど、写真は仕事になってしまったからなあ… 趣味がそのまま仕事になってしまうっていうのは幸せなんだけどね」

これを思い出して、今ギャラリーでこんなブログをかいていて、はたと思い当たったのだが、私の趣味はひょっとしたらギャラリーなんじゃないの?と。

そうだねえ…もう5年もギャラリーやってきて、全然飽きないもんね。

アラーキーと違うのは彼は趣味で稼いでいるが、わたしは趣味で赤字を増やしているということであろう。

さて、わたしは今日から趣味にいそしむことにしよう。

来週から始まる神田毎実展の搬入は終了している。

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壁に取り付けてあるのが作品である。下から見るとこんな感じ。

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「視点-彼の視線、彼女の視線」というタイトルである。細かい説明は来週。

オフィスのほうの作品はこんな感じで、賑やかで楽しい作品がところ狭しと並んでいる。

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バザーみたいである。

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わたしはこれからキャプション作りをしなければならないのだが、50点もあるので、今日中には終わらないかもしれない。

神田さんは初日と最終日はギャラリーに詰めているが、他の日は未定である。

初日パーティーは行いません。

そういえば、倉重光則は昨日スイスに飛び立ったはずである。バーゼルで展覧会がある。忙しい人である。

本は3冊読んでいる。

岡本太郎 『美の世界旅行』(新潮文庫)

井形慶子 『東京吉祥寺 田舎暮らし』(ちくま文庫)

チャルマーズ・ジョンソン 『ゾルゲ事件とはなにか』(岩波現代文庫)

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『ゾルゲ事件とはなにか』が圧倒的にすごくて、他の本は霞んでしまう。この本にこういう言い方は適切でないかも知れないが、めちゃくちゃ面白い。尾崎秀美(オザキホツミ)に焦点を絞っているいるところが興味深い。

今朝、わたしは、テレビを持ち上げたはずみで、ぎっくり腰になった。左のお尻の筋肉に激痛が走る。どうしたものだろう。

4Fのギャラリー58も来週からスタートである。搬入は明日の日曜日とのこと。「お母さん」が吉岡さん、ちょっと来てと言って見せてくれたのが、58の事務所側の窓側のドア。閉まったまま動かなくなってしまったそうだ。わたしが、力ずくで押してもびくともしない。濡れたタオルをドアに掛けたまま閉めたら、動かなくなってしまったのだそうだ。

どうしたものだろう。

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2016年8月 6日 (土)

ようやく夏休み

今日で金澤麻由子展終了。金澤さんは神戸から日帰りでギャラリーへ。かなり疲れているはずだが、訪れたお客さんに絵本動画に合わせて読み聞かせをする。

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来た人みんなに歌を交えて読み聞かせをしているので、わたしは倒れないだろうか…と少し心配になる。

読み聞かせを聞いて、涙を流している人も居た。

暑かったこの一週間だが、無事に終了。作品もたくさん購入していただき、ありがたいのだった。

次回の金澤麻由子展は来年の9月。

8月7日(日)-21日(日)はお休みさせていただきます。

私は半分ほど休んで、あとはギャラリーで仕事をする予定です。

本は

ニーチェ『善悪の彼岸』を読むことにした。

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わたしは一回読んだ本は再読しないことにしているのだが、初めて『善悪の彼岸』を読み直すことにした。30年ほど前に読んだはずだったが、読み返してみると、やはりニーチェのパワーに圧倒されて、なんだか元気が出てくる。こんな文章はニーチェにしか書けない。

「われわれは名誉や、金銭や、官職や、官能の陶酔のうちに潜んでいる依嘱の好餌に対しては満腔の憎悪を抱いている。困窮と変り易い病状に対しては感謝の念をすらもっている。これらはわれわれを常に何らかの規則とその「先入見」から解放してくれたからだ。また、われわれのうちにある神・悪魔・羊・蛆虫に感謝する。悪徳に至るまで好奇心に充ち、残忍に至るまで探求者であり、捉えがたいものに対する躊躇することのない指をもち、消化しがたいものに対する歯と胃をもち、明敏と鋭い感覚を必要とするあらゆる手職を具え、「自由意志」の過剰によってあらゆる冒険に立ち向かう用意があり、何人も容易に究極の意図と見抜きえない前向きの魂と後向きの魂とをもち、何人も足をその終端まで踏み出すことを敢えてしない前景と背景とをもち、光のマントを纏った隠遁者であり、遺産相続者で浪費者であるかの如く見えながら征服者であり、朝から晩まで休むことのない整頓者で蒐集者であり、われわれの富とわれわれの一杯に詰め込まれた箪笥をもつ吝嗇家であり、学んだり忘れたりすることにかけては家計上手であり、図式を案出することが巧みであり、時には範疇表を作って誇り、時には衒学者で、時には白昼でも仕事のためには夜の梟である。それどころか、必要とあれば、案山子でさえもある。-そして、今日ではそれが必要なのだ。すなわち、われわれが孤独の、われわれ自身の最も深い真夜中の、真昼の孤独の、生まれながらの嫉妬深い刎頚の友であるかぎりそうなのだ。-われわれはこのような種類の人間である。」

ブログもしばらく夏休みに入らせていただきます。

では、みなさん、よい夏休みをお過ごしください。

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2016年8月 4日 (木)

コマーシャル2題

最近のテレビコマーシャルで気になっているのが2つある。1つ目はopen houseという建築会社のものである。

都内に新築一戸建てを建てようとしている家族が居る。出来つつある新しい家を前にうきうきしながら建設中の我が家を眺めている。その家族は犬を飼っていて、その犬も新しい家に入れるのを心待ちにしているのだ。その犬に扮するのは織田裕二である。

ところが、途中で思わぬライバルが出現する。猫である。猫に扮するのは麗しい美女であり、その猫は、家族に取り入ろうとして猫なで声で甘えるのだ。そして、犬の織田裕二に言う。

「あんた捨てられるわよ」

そして、やがて家は完成する。犬は家族といっしょに新築の家を嬉しそうに眺めているのだが、そこに、大工に扮した畑ムツゴロウがあらわれて、織田裕二にこう言うのだ。

「かわいいワンちゃんだなあ。なに?犬小屋がほしい?」

いやいやいや、そんなものはいらない、おれは新築の家に住むんだから、とムツゴロウに言うのだが、なにしろ犬なので、ムツゴロウには通じないのだ。

「言ってません」

「よしよし、わかったわかった。犬小屋を建ててやろう」

「言ってません」

このときの織田裕二の困惑した顔は上手である。

猫は勝ち誇ったようにしているのだが、犬はう~っと吠えて

「こいつは猫をかぶってるんだ」

と訴えるのだが、飼い主である家族は、ある方向を指差して

「ハウス!」

と命令するのだ。その指差す方向には新しい犬小屋ができていた。

という悲しいワンちゃんのお話なのだが、わたしには

「言ってません」

と切実に訴える言葉が妙に心にひっかかるのだった。

2つ目は、たぶん栄養ドリンクかあるいはビタミン剤のような、まあ、元気になる系の飲み物である。

女優さんが突然「変顔」をしてこう言うのだ。

「疲れたわたしはぶちゃくなる」

つまり、疲れてしまうと、せっかくの顔も不細工に見えてしまうから、このドリンクを飲みましょう!ということなのである。単純である。

このドリンクを飲みさえすれば「ぶちゃいく」にはならないのである。

単純そうでじつは、そこには「女の秘密」が隠されている、ということを、男であるわたしは見破ってしまうのである。

そもそも、可愛い女優さんは、どんな変顔をしてもぶちゃくはならないのである。

「不細工」と「ぶちゃいく」は違うものである。「ぶちゃいく」というのは、本当は不細工ではなくて、たまたま今はこんな顔で申し訳ない、くらいの意味だが、「不細工」というのはどうがんばっても修復は不可能であるということを現わしているのだ。

このコマーシャルのキーワードは「ぶちゃくなる」の「なる」である。

不細工「である」、ではなく不細工に「なる」のだ。

これは何を意味しているのかというと、本当はわたしは不細工ではないということを宣言しているのであって、さらに踏み込めば、わたしは可愛い、美人であるということさえ密かにささやいているということにもなるのである。

さて、まあ、そうだろうなあ…ということはお分かりになると思うが、問題は、このコマーシャルを見ている人たちはみんなまあまあの顔立ちをしているのかという問題に突き当たることなのである。

不細工な女性もこのコマーシャルを見ているのだ。

この女性たちは「なる」ではなく「である」なので、このドリンクを飲んで、疲れを取ってもその効果を期待することは出来ないのである。

不細工な人は、このコマーシャルを見たら、どんな顔をするのであろうか。

この会社には苦情が殺到しているのではないだろうか。心配である。

しかし、よくよく考えてみれば、わたしの心配は余計なのかもしれない。不細工か美人かの判断は、あくまでも主観の問題なのだから、本人次第ということもできよう。

これまで、苦情が寄せられて、コマーシャルを中止したということはないようなので、つまり、このコマーシャルを見ている女性たちは自分のことを不細工とは認識していないことだけは確かなようなのである。

「あなたは、世の中の女性は不細工ばかりだと言ってるわけだよね?」

「言ってません」

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2016年8月 1日 (月)

金澤麻由子展初日

2年前に今回と同じような絵本展をやったときに、会期の終盤に来たお客さんたちが、今回は、初日に行かなくちゃ!と思ったらしく、前回と同じ顔ぶれの方たちが多くいらっしゃった。

「遅く行くと、いいのがなくなっちゃうわよ」

ということらしい。

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ホログラムの作品も持ち込んでいる。

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右側の緑の小山の中を覗くとホログラムが見られる。

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「百ぱぐ図」絹・デジタル染色 56×78cm ¥45,000(売約済)

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事務所には30点の小品が並んでいる。というか並べた。

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上『ぼくぱぐ』p2掲載「ひとりぼっちのきみへ」 透明水彩 18×23cm ¥25,000(売約済)

下『ぼくぱぐ』p40掲載「だあれ?」 水彩 18×23cm ¥25,000(売約済)

黒い縁の額に入った作品は原画。今回特別に6点だけ販売しています。

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「ふたりで」 金紙にアクリル 40×40cm ¥35,000

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夏休み前の最終展覧会です。銀座の近くに来たらぜひお立ち寄りください。

今週は吉岡は(火)と(金)お休みさせていただきます。

金澤さんは(木)と(金)は居ません。







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2016年7月30日 (土)

金澤麻由子在廊

前回、金澤さんは、会期中在廊しないとお伝えしましたが、在廊できることになりました。

なんか、無理やり休暇を取ったようです。大丈夫なの?と訊くと

「大丈夫だと思う…」

ということです。

在廊する日は、1日(月)、2日(火)、3日(水)、6日(土)の予定です。

今日が搬入。バイトを2人頼んでいます。彼女の搬入はとても時間がかかるのでわたし一人では手に負えないのです。

気合入れてがんばろう。

大岡昇平『常識的文学論』を読み終える。

いろんな作家を思い切り批判しているのだが、気に入らない作品、ダメな作品は許せない!という義憤に駆られて書いているのだが、批判するっていうのは、かなりの知識とエネルギーがないとできないことなんだなあと実感。

井上靖、佐藤春夫、松本清張等がコテンパンにやられている。

本当に価値のある作品を守るためにも、贋物を排除していかなければならない。美術も同じだけど、「贋物」が多すぎて、どこから手をつけたらいいのか分からなくなってしまうね。

この本で、心に残った3行。

「…真の才能とはほんとに気の乗ったことしか出来ない点にある。なんでも出来るのは才能でもなんでもない。つまらないことはしたくても出来ないのが才能というものではないのか。」

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2016年7月28日 (木)

夏休みはまだなのか

そろそろ本格的に暑くなってきていて、学校も休みに入っているわけだし、ギャラリーも夏休みが待ち遠しいのであるが、まだまだそんなに甘くはないのである。

FAVORITE展は暑いのにお客さんは順調に訪れていて、いい感じである。

来週からは金澤麻由子展である。

「絵本の時間 展 金澤麻由子」

8月1日(月)-6日(土)

金澤さんは搬入には来られるが、会期中は仕事の関係でギャラリーには居られないということである。

2009年に茨城県の笠間市で行われた「ART COCKTAIL 2009」に金澤さんに参加してもらったのが、わたしが彼女と会った最初だった。そのときは、笠間駅前の喫茶店を会場にして、金澤は、羊のドローイングをコマ撮りしてアニメーションに仕立てた作品を展示した。

その後、美術館をはじめとする様々な企画展に参加して活躍しているが、映像を使ったインスタレーション作家という捉えられ方をしている。しかし、彼女にはもう一つ、絵本作家という顔があり、今までに3冊の絵本を出版しているのである。

Steps Galleryでは2回目の「絵本」の個展である。

今回は絵本の原画のほかに、パグを描いた絵画を30点ほど展示する予定である。

原画のほうは販売できませんが、絵画作品は販売しますので、どうぞお出かけくださり、お買い求めください。

もちろん絵本の販売もします。クリアファイルや絵葉書、マグカップやノートなどのグッズも扱いますので、お楽しみに!

金澤麻由子展のあとは休みに入ります。

夏季休廊 8月7日(日)-8月21日(日)

8月22日(月)からは神田毎実展

神田さんは、愛知県立芸術大学の彫刻の教授。現在開催中の瀬戸内トリエンナーレで、倉重光則の作品展示を企画した人でもある。

☆展覧会

「宇野和幸・野中梓 2人展」

8/8(月)-13(土)

K’s Gallery(銀座1-13-4 大和銀座一ビル6F)

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