宮田徹也氏に金在寛評を書いていただきましたので、紹介します。この文章は、韓国で作られる金先生のカタログにも載る予定です。
金在寛―空間と重力の失われた次の世界
幾何学的抽象とオプティカル・アートから出発した金在寛の近年の作品は、グリッドにより構成されている。金はsteps gallery(東京)の個展(2012年5月14-19日)において、《Myth of Cube》(2012-03,0401,05/ミクストメディア)の幅がある平面を四点、《Distorted Cube》(12-1~10/スチール、クロームアルミニューム)の立体を十点、《Distorted Cube》(12-1,2/エンボシング)の木版二点を展示した。いずれもグリッドが主要概念の要素となっている。
《Myth of Cube》は厚みのある60号ほどの画面が大きく6つ、若しくは8つに分断され、主に寒系の色彩が施されている。背景となる部分を含めると矩形は21つにまで数えることが出来る。その上に黒、灰、赤などによって、正六面体が描かれている。この正六面体をまるでナイフで切り、その断面図を明かしたような白いグリッドが描かれている。このグリッドは六面体であることに限定されず、単なる矩形に留まる場合もある。1枚の作品に対して一箇所か二箇所、刳り貫かれているというよりも凹状の場所が形成され、そこに立体が填め込まれている。この立体も白いグリッドと同様、正六面体の断面である。
立体のみが独立して壁面を飾ったのが《Distorted Cube》(12-1~10)である。上からの照明による陰が、更に複雑な形象を生み出していく。《Distorted Cube》(12-1,2)にはグリッドが一つしか描かれていないが、よく見るとエンボシングによるグリッドが浮かび上がり、版画という完全な平面であるにも拘らず、深い奥行きが生まれていく。
いずれも《Myth of Cube》=立方体の神話、《Distorted Cube》=歪曲された立方体という作品名が示す通り、立方体という形而上的で完全な世界が変形されることによって、現実でありながらも架空の世界が無尽に広がる想像力を掻き立てる。それは自然の秩序の背景に存在する不可視の世界を具現化し、人間の想像力の有限と無限、宇宙との対話へと導く窓口を開いているということができるのであろう。
しかし金の作品は、A・デューラーが《メランコリア》において描いた八面体のような、複雑で数値的な、理知的な精神性を指し示す象徴的な要素は排除されている。古代から綿々と繋がる人間の知的欲求に応えながらも、飽くまで人間の持つ限界を目の前に突きつけ、その上で全ての人間が自由であり、選ばれた者以外の何人でも作品に触れ、創造する愉しさを得られることを教えてくれる。それはデューラーの《メランコリア》の八面体が究極の理想的な姿である球体に内包されることに対し、金の正六面体は何者にも制限されることなく無限に断面図を晒すという性質にも現れているということが出来るのであろう。
美術の歴史を紐解くことが許されるとすれば、金が影響を受けたとされる幾何学的抽象とは20世紀初頭のP・モンドリアン、W・カンディンスキー、K・マレーヴィッチらや、1950年代のアメリカ抽象表現主義を指すというよりも、古代の古墳に描かれている文様のようなものを示しているのではないかと指摘することができる。それは早くも1920年代にM・デュシャンが予言し、1960年代に台頭したオプティカル・アートと綿密に連繋する。この二つの美術の動向は、絵画の問題であるゲシュタルトに関係せず図像が動き出す点に共通する。
古代の古墳の文様は、我々の視覚では捉えられない儀式であり祝祭的な動きに満ち溢れている。オプティカル・アートは古代への回帰ではなく極限まで切り詰めたミニマル・アートから発見され、それは来るべき未来を感受しようとしたヒッピー思想に受け継がれる。ヒッピー思想はアポロ11号による有人ミッション以前に人間の意識を遊星に漂着させたことを例に挙げるまでもなく、既にこの段階でWorld Wide Webの理論を構築するという、未知の世界を手元に引き寄せる役割を果たしていたのである。
即ち金は、現代という地点に立ちながらも過去と未来を同時に見据えていたことになる。そして金にとって重要なのは、視覚を混乱させることではなく視覚の多元性を最大限に引き出すことにある。すると、金にとって平面か立体は問題ではなくなるのだ。
再び金の作品に眼を向けると、平面とすれば空間性よりも作品の厚薄、立体とすれば質感に対する重力よりも密度という意味での質量が問題となってくる。金の作品で虚実が無効となるとするならば、我々の存在を拘束する時空と大気圏の存在の有効性が無化する。宇宙空間では上下左右奥手前が失われ、近くと遠くという概念しか有効性を持たない。そして重力が意味を成さないため、果てしない質量を持つ物質が浮動し続ける。このように金の作品は、神を信仰しながらも信仰する自己から解き放たれようとする古代の文様とヒッピー思想が持つ未来を見据える力を同時に携えていることが伺えるのだ。
翻って美術の在り方の根底に問題意識を持てば、我々は二つの眼球によって物事の存在や形状を認識・把握しようとするのであるのだが、網膜に映し出された映像が脳によって統合され立体視していると思い込んでいるだけの話であって、決して自己の外界を理解することはできないのだ。たった一本の線が引かれた図像にもゲシュタルトが発生し、人間は地と図を同時に掌握不能の為、その図像に永遠に辿り着くことが出来ない。それは球体の全ての面を捉えることが不可能であることと同様で、人間は立体を視線の全角で掴むことは在り得ないのだ。遠近感すらも虚偽であると定義するのであれば、遠近法どころか三次元を二次元に取り込むヴィジュアル・コミュニケーションの時代に対しても異議を唱える必要が生じる。オプティカル・アートはこのゲシュタルトの喪失を目論んだに過ぎない。
三度、金の作品に眼を投じてみよう。そこにはゲシュタルトが発生し、我々の視線は手前と奥の間をさ迷うであろう。白い線でもスチールの枠でもいい、グリッドのみを見詰めると、その容は千差万別に息づいてくる。そのまま背後に描かれている矩形、若しくは立体のグリッドの陰に視線を広げるといい。そこには複数のグリッドが動き出すどころか、背後の世界が前面に浮かび上がってくるのだ。この点において、金はオプティカル・アートが持つゲシュタルトの課題を古代の文様によって昇華したことになる。そこは同時に、現代の我々が生き延びる為の唯一の場所であると言い換えることが出来るのである。金の作品の背後には我々が畏怖する驚異の世界が隠されているのではなく、我々自身の自画像が鏡のように生息している。見る者がこの世界を発見することによって、金在寛の作品は完結=補完するのではなく、新たな鼓動を発し、見る者と共に次の世界へ旅立つのだ。
宮田徹也(日本近代美術思想史研究)